たりたの日記
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2018年01月21日(日) |
グレゴリオ聖歌を歌いながら |
昨日は一日中出かけていたので、こういう日の翌日は決まって寝込む事になったのだが、今日は朝から調子がいい。 グレゴリオ聖歌が歌える! 急ぎ身支度。
もし体調が良ければ、久々に電車で東久留米の「聖グレゴリオの家」のミサに出ようと、この日歌われるグレゴリオ聖歌を練習していたのだった。 用意万端。
朝7時45分の電車に乗れば、9時半からの聖歌隊の練習に間に合う。およそ45分のリハーサルをはじの方で邪魔にならないようご一緒させていただき、ミサでも歌った。
人一倍グレゴリオ聖歌が好きで長年聞いてきてはいても、まだまだネウマ譜を歌にする力はなく、ラテン語も日本語と比べてながら、辛うじて意味が分かる程度。それでも、自分で声を出して歌える事に大きな喜びがある。
日本語であれば、その言葉に慣れてしまっているので、意味や味わいが心に引っかからず素通りしてしまうことが多いが、ラテン語の場合は、これは何という意味なのか、どういう発音になるのか、ひとつひとつの言葉が未知の言葉で新しい。何度も何度も繰り返し歌いたい。
今日の福音書はイエスがガリラヤ湖で、漁師のシモンとアンデレに 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしようと」と言って2人がすぐさま網を捨てイエスに従うという箇所なので、その事を歌った歌で統一されている。そうした事も、見事に美しいと思う。 ミサをどれほど大切なのものとしていたか、当時の修道士のこだわりもまた見えてくる。
歌いながら、いつか、講座の中で語られていた言葉が思い出された。 「私たちはどんなに頑張ってみても、生きている間にこの歌を完成させる事ができないです。きっと天国でこの歌を完成させる事ができるのでしょう」
ミサそのものが、この世で生きる者達がすでに天国にいる方々との交流の中で捧げるものであれば、こうしてミサの中でグレゴリオ聖歌を歌うことは、私の魂にとって必要な準備、終活だという気がする。 最近は身辺の整理などといったこの世の終活よりも、魂の終活の方がよほど大切に思える。一方で8月完治という目標を掲げているとしても。
3月1日からの8日間のキリスト教的ヴィパッサナー瞑想にも参加したいと、意思が固まってきた。身体も何とか支えられそうな気がする いつかは参加しようと思っていたが、それは「今」という気がしてきた。
イエスの召し、そして召しを受けた弟子たちの決断を心に刻む。 この4月にわたしも歩いた、あのガリラヤ湖のほとりで起きた出来事を。
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マルコによる福音書1章14節〜20節
1・14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤヘ行き、神の福音を宣べ伝えて、15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 16イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。17イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。18二人はすぐに網を捨てて従った。19また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、20すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。
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