たりたの日記
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昨夜は今日の内に帰れるかどうか気を揉んだが、無事、午前中の内に家に戻れた。 夫が午前中仕事を休んでくれたので、退院も楽だった。
火曜日は午後4時半から小学校低学年クラス、5時半から高学年クラス、そして7時から8時20分まで中学2年のクラス。期末テスト直前の準備に加え、5人のうち、3人は7月2日に英検3級の面接試験を控えている。 初めての面接試験なので、その試験に慣れるために模擬練習が必要。何としても、今日のクラスをミスすわけにはいかなかったので、まずはクラスができた事を安堵。
でもひとつ、心が乱れ、安らかではない事があった。先週に続き、今回も、教科書とワークを持ってこない生徒がいた。保護者にもメールと電話で伝えておいただけに、しかも、一番、気にかかっていた生徒だけに、ショックは大きかった。
問題は教材を持ってこなかったというところとはまた別のところにあるのだろう。彼の学習に対して何とかしなければという私自身の焦りがあった。その一方で、課題をやってくるという私との約束は守りたいと思ってはいても、気持ちが学習に向かわない。少しも学習していない教科書や、何も手をつけていないワークブックを持ってくる事で生じるであろう摩擦を避けたいという無意識の抵抗であるのかもしれない。
そもそも、期末テストで良い成績をとることが、本人の人間としての成長にとって、それほど重大な事でも何でもないないはずなのだ。私がしゃかりきになるのが間違っている。きっと彼の魂はその事を認識しているのだろう。だから、親や教師がいくら学習しろと言っても、それに従えない自分があるのだろう。 それは、それで、彼の個性であり、大切な部分に違いない。
私は中学生の頃はかなりなガリ勉だった。テストに対して、競争心もあったが、それ以上に恐怖心が強かった。良い成績を保持しないと、人生につまずく、やりたい事もやれなくなる。恐怖心にかられた学習は大学を卒業するまで続いた。 そんな恐怖心を、私の子どもにも、また生徒にも知らず識らずの内に投影してきたような気がする。 のびのびと育ててきた、楽しい学習の場面を作ろうとしてきたと思いながら、根底にはネガティヴな記憶がもたらすものから私自身が自由になっていなかった。
奇跡のコースで学んでいること、練習していることは、まさに、そうした自分のネガティブな部分を解放し、赦すということ。 今回の事は、生徒の問題というよりは、私の問題。 表面的な事で、人を判断しないこと。
まだまだ先は長い。
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