たりたの日記
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2017年04月05日(水) |
人生はパフォーマンス |
今朝も たりたの日記の振り返りをしている。 あまりに膨大な量なので、最初から読んでいては、いつ終わるか分からない。そこで、適当にどこか4月の分を開いてみる。2004年という年が、あまり印象に残っていないので、今朝は2004年の4月を振り返りることにした。一番最初に出てきた、4月29日の日記、今も目の前の書架にある、「内なるオルフェウスの歌」について書いてある。13年前の私が書いたものだが、そこから今朝、フツフツの身体を駆け巡るようなエネルギーをもらった。
ここに載せておこう。
「内なるオルフェウスの歌」を開いて 今朝は珍しく、朝の五時半という時間に起きて、PCの創作のノートに向かった。
といっても、ストーリーの筋を考えたり、物語の出だしを考えたりしたわけではない。どのように書こうとしているのか、また書きたいのか、そこのところについて考えを巡らせている。
手元にある本は、古楽音楽家、アントニー・ルーリーの「内なるオルフェウスの歌」(有村裕輔訳・音楽之友社) この本の帯には 「この世はすべて舞台だ!人はみな自らの内にオルフェウスを宿している。 その歌声に耳を傾けるとき、人生はひとつのパフォーマンスになる。 ―古楽界の奇才が繰り広げるパフォーマンスの錬金術」とある。
ずいぶん前に買った本だったが、「育つ日々」の最後の章を書いている時に、この本からもらったインスピレーションのことを思い出して、書架から取り出したのだった。読み返してみると、その言葉が長い時間の内にわたし自身のものになっているのに気がついた。 というよりも、この本を読んだ時、わたしの内にあって今だに表現されていないものを、そこに見出したのだった。
この本の序文の中にこういう文がある。
――ここでは私が定義している「パフォーマンス」という言葉を定義しようと思う。ここで示すのは、ひとつの哲学的見解であり、パフォーマンス以外の何物でもないということだ。私たち各人が、ひとつの役や複数の役をある程度、自らの意志でもって、意識的に、自らの能力によって演じているのである。すべての行動、すべての種類の追求行為は「「パフォーマンス」と見ることができる。ややもするとこういう見解は、それからすべての自然さを取り去るように見えるかもしれないが、結局はこのことだけが、さらに大いなる自由へと導いてくれるかもしれない発見なのだ。私たちが自らの役割を、気配りと愛を持って、気楽に、意識過剰にならずに演じれば、己の芝居の中で自らが開花し、私たちの周囲も同じように開花するかもしれないのだ。―― <中略> 正式な「パフォーマンス」というものは、平凡な日常から私たちを引きずり出すための促進剤とか、有益な刺激剤としての役割を果たしており、同時に人間に体験がいかに並外れて豊かなものであるかを気づかせてくれる。すべての行為には驚異の感覚がつきまとうということを私は確信している。………
(以上、抜粋)
「日常の中にあるファンタジー」
これは、わたしの中にいつも留まっている言葉だ。 テーブルの上にある一個のグレープフルーツが、 花瓶の中にかすかに揺れているビオラの薄い紫の花びらが 非日常の入り口と成り得る。 同様にどのような日々の行為もそこに、物語を含んでいる。
何を見るかではなく、どう見るのか。 何を書くのかではなく、どう書くのか。 書かれたものの中で、日常が異なる光を帯びる。 読む者自身の日常が、その時、ふっと異なる次元へと移行する。
書くこともまた、舞台の上の「パフォーマンス」のように捉えたい。 優れた「パフォーマンス」が、意識の高揚感、静止したかに思える時間、永遠へと繋がる感覚をもたらすことができるように、書くものもまた、そこに、インスピレーションをもたらし、別の次元へと誘うものとして意識したいと思った。
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