たりたの日記
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2016年05月22日(日) 宗次郎の誕生

2016年5月22日午後3時45分、大阪に住む次男夫婦に長男、宗次郎が誕生。
折しもこの日は満月。予定日よりも2週間ほど早かったが、月の満ちる力を捉え、地上での人生を始めることにしたのだろう。送られてきた生れたばかりの写真を見れば、新生児だというのに、男っぽく凛々しい顔立ちをしている。

母親は前日の朝から入院したので、丸一日半、ずいぶん長時間の陣痛を耐えたことになる。無痛分娩ではあったものの、苦しいお産だったということだった。例外もあるだろうが、だいたい第一子のお産は大変だ。私の時も、また長男のところの玲央の時も。ほんとに、お疲れさまでした。

この日私は家を8時に前に出て、三位一体主日のミサにあずかるべく、東久留米へ。また午後はグレゴリオ聖歌入門講座に出席していた。聖歌隊の方々の美しいクレゴリオ聖歌を聞きながら、また口ずさみながら、新しい命の誕生のことをずっと祈っていた。主日に生れるというのはいいなぁと思いつつ。

さて、名前だ。昨夜はまだ決まっていなかったようだが、今朝ラインで名前が知らされた。二人が好きな宮沢賢治の「雨二モマケズ」の詩のモデルと言われている人から取ったということだった。
宮沢賢治なら、わたしにとっても、好きという以上の、深い関わりを感じている人物。雨二モマケズは賢治の手帳に無数の念仏の言葉と共に書きつけられたメモで、わたしはそこに賢治の悲痛な祈りを読み取るのだが、そこにモデルがいることは知らなかった。

調べてみると、斎藤宗次郎という人物が出てきた。なんと反戦を貫いたキリスト者、内村鑑三を看取った第一の弟子、宮沢賢治と交流があり、その作品の中にも名前を変えて登場している。雨ノモマケズが賢治の究極の祈りであれば、そのモデルという見方は置いておきたいが、実際、デクノボーと呼ばれる、賢治の理想とする生き方をした人だったようだ。

さて、わが肥後ファミリーに新しく加わった宗次郎くんはどんな人生を歩くことになるのだろうか。名前の由来が由来なだけに、斎藤宗次郎という人物や内村鑑三や宮沢賢治
の人となりに触れることはあるだろうな。わたしは宮沢賢治の童話を読んであげるだろう。

こうして、新しい命は昨日始まったばかりだというのに、すでに希望と力がそこから届いてくる。

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斎藤宗次郎 について のメモ



デクノボーという生き方

http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-132.htm


ウィキペディアより

内村鑑三との交流

日露戦争の際、内村に影響され本気で非戦論を唱え、「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意をする。心配した内村が花巻を訪れ説得し斎藤は翻意するが、すでに県当局からにらまれ、小学校教員の職を失った。その後は新聞取次店を営みながら生計を立て、清貧と信仰の生活を送る。画家の中村不折は彼を「花巻のトルストイ」と呼んだ。晩年多くの弟子に裏切られ、「弟子を持つの不幸」という文まで書いた内村に終生尽くし、1930年(昭和5年)の内村の死の際には隣室に泊り込んで日夜看病した。


宮沢賢治との交流
同郷の出身で日蓮宗(国柱会)の信者だった宮沢賢治とは宗派を超えた交流があり、1924年(大正13年)の日記には賢治の勤めていた花巻農学校に斎藤が新聞の集金に行くと賢治が招き入れ一緒に蓄音機で音楽を聞いたり、賢治の詩「永訣の朝」らしきゲラ刷りを見せられたという記述が見られる。また、賢治の散文詩「冬のスケッチ」には斎藤をもじったと思しき「加藤宗二郎」という人物が出てくる。
一部には「雨ニモマケズ」のモデルであるという説がある。これについては、岩波書店から刊行された日記「二荊自叙伝」の解説で賢治研究者の栗原敦が、「雨ニモマケズ」には賢治の嘆きや弱さがにじんでおり、安易に斎藤に重ねることは、迫害に耐えた斎藤の強固なキリスト者としての独自性を見逃すおそれがあると指摘している。
1927年(昭和2年)、上京。1968年(昭和43年)、90歳で死去





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