たりたの日記
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2008年07月04日(金) |
福永武彦「愛の試み」再び |
3月26日の日記で、福永武彦の「愛の試み」をボイスブログにアップしたことを書いている。 昨夜、三ヶ月振りにこの著書をまた開いた。
朗読する気はしなかったが、文章をそのままここに残しておきたい思いが起った。
ここで繰り返し語られる、愛と孤独との関係。少しずつ見えてくる。
福永武彦著「愛の試み」より最終章の「愛の試み」の途中から引用。
もし人が初めの愛に於いて理想的な恋人を得、その持続の内に一生を終わったとするならば、それは羨ましいことには違いないが、現実はもっと傷だらけのものだ。
僕たちは真に心を許し合える対象を見出すまで、傷痕を自ら癒しながら、この生を続ける他にはないだろう。
僕はドン・ジュアン的な意味で、愛が繰返しだと言うのではない。愛は多くの場合、一種の幻覚であるが、孤独は紛れもない人間の現実であり、愛は成功すると失敗するとに拘わらず、この孤独を強くするものだと言ひたいのだ。
真に生命を賭けて愛した者でなければ、孤独を強くすることは出来ない。
孤独という言葉の持つ詞的な響きが、もしもそれを弱いもの、傷つけられたもの、不毛のものとしての印象を与えるとするならば、僕はこの言葉を、より積極的な意味で使っていることに、注意してほしい。
弱い孤独によって愛した人間は、その愛もまた弱いのだ。
孤独と孤独がぶつかり合う愛の共通の場というものは、愛するものどうしが助け合い、慰め合い、同情し合うことのみを目的としているのではない。
孤独はエゴの持つ闘いの武器であり、愛もまた一種の闘い、相手の孤独を所有する試みなのである。
「夜われ 床にありて我心の愛する者をたづねたりしが尋ねたれども得ず。」
僕は『雅歌』のこの言葉を好む。これは人間の持つ、根源的な孤独の状態を、簡潔に表現している。
この孤独はしかし、単なる消極的な非活動的な、内に鎖された孤独ではない。愛によって自己の傷の癒されるのを待っている孤独ではない。孤独の方が、愛に向かって、愛を求めて、ほとばしり出ていこうとする、そうした精神の一種の行為なのだ。
愛が失敗に終わっても、失われた愛を歎く前に、まず孤独を充実させて、傷は傷として自己の力で癒そうとする、そうした強い意志に貫かれてこそ、人間が運命を切り抜けて行くことも可能なのだ。
従って愛を試みるということは、運命によって彼の孤独が試みられていることに対する、人間の反抗に他ならないだろう。
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