たりたの日記
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2008年03月28日(金) |
<命の息を語り歌う> コンサート終了 |
<命の息を語り歌う>―朗読と歌とオルガン のコンサート、無事終了した。
そう、何を書こう、会場に向かう事から始めるとすれば、行きの電車の中で読んだ、サリンジャーの「フラニーとゾーイ」の事を書かなければならないだろう。
ゾーイが芝居を捨てようとしているフラニーに語る一連の言葉。 その最期の数ページを繰り返し読んで、そこからやってくるとてつもない力を感じていた。
誰のために演じるのかという問い。 それはすべての「太っちょのオバサマ」のために。そして「太っちょのオバサマ」でない人間はひとりもいないと。 そしてゾーイは言う。 「ああ、きみ、フラニーよ、それはキリストなんだ。キリストその人に他ならないんだよ、きみ」
この「太っちょのオナサマ」という合言葉に隠されている大きな秘密。その事を会場へ向かう電車の中で確認する事ができた事はとてもすばらしいことだった。
朝、文学ゼミの掲示板をチェックしたおり、仲間のTさんが、わたしが今日、本番を迎える事を励ましてくれ、暗示的に、この本のこのフレーズを指し示していてくれたのだった。
原宿教会の白い礼拝堂に、オルガンの音が響き、歌が満ち、言葉が流れていた。それを演じる側にあるのに、同時に高いところから、その会場全体を眺め、そこに起ることがらに目を凝らしている意識があった。 その音と言葉が流れる空間を心から楽しんでもいた。
朗読の師匠から言われ続けてきたこと。自分を見せるのではなく、そこに書かれている事がくっきり相手に伝わるように読むという事。そのためには、 書かれているその時間、そこにある「今」の中に読み手が入ること、そうすることで聴いている人にもそこにある「今」が見える。
聴いてくださっていた方にそれが見えたかどうかは、計りようもないが、少なくともわたしは、読みながら文字の向こう側に自分が入りこんで、はるか昔、はるかかなたのベタニアの地にあって、イエスとマリアの側にいるような心もちだった。また、空っぽになってしまったイエスの墓を見ていた。そして、かっこうの声がこだまする林の中に居た。
読み手でありながら、読んでいる自分が見えなくなってしまい、お話の中にすっぽりと包まれた不思議な感覚だった。
またわたしの立っているところから、客席にいらっしゃる方がたがはっきりと分ったので、おひとりおひとりのお顔を拝見しながら、来て下さり、こうして聴いて下さる事に、心の中で感謝をお伝えする事ができた。
180人ほどの人達で埋まった観客席の中には、久し振りに会うなつかしい方たちや従兄弟と夫も含め、知っている方たちの顔があった。30名ほど。 幼馴染、学生時代の友人、子育て時代の友人、教会でお世話になった方、文庫時代の仲間、隣の主婦(?)仲間、朗読仲間、ダンス仲間、ゼミ仲間、英語教室の生徒とお母さん、ネットで出会った方たち、そして朗読の師匠も! その事がしみじみと有り難く、暖かいものに満たされていた。
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