たりたの日記
DiaryINDEX|past|will
前に書いた日記の日付を見るとちょうど1週間ここを留守にしてしまったことになる。 たったの1週間? もっとたくさんの時間が流れたような感覚があるのだが・・・
どこに行っていたという訳ではない。 でも、あまりにも様々な事があった。 様々な扉が開き、また閉じた。 心の振幅も激しかった。 そういう意味で、心はひとしきり旅をしてきたのかもしれない。
14日、カフカ原作「流刑地にて」のオペラを観に新国立劇場へ行く。 その地では、特殊な機械によって罪人の死刑が執行される。上から降りてくる針と振動するベッドによって身体に刻まれるその人間の罪状。はじめの6時間が過ぎると罪人は恍惚としてさらに6時間を過ごし、死刑が終わるというなんとも残酷な話なのだが、曲と歌い手、そして舞台美術と演出の完成度が高く、すばらしい緊張が漲っていた。 そこにある死は、夢の中のそれのように、不思議なカタルシスに満ちていた。 わたしの内的なニーズにぴったりだったとも言える。あたかも、そういった「死」を欲していたかのように。
15日、長谷川氏の朗読講座。辻井喬「幽かな梅」。先生を囲んでの食事会には失礼して、そのままの足で県民活動センターへ。、翌日のイベントの会場設定のため。県活から家までずいぶん歩いた。浅い春の夜の散歩というにはあまりに早足で歩いたのだったが。
16日、自治会の総会の司会。午後から「こども夢未来フェスティバル」で県活へ。「英語で遊ぼう」のタイトルで、歌、指遊び、ヨガ、絵本の読み聞かせなど60分の英語パフォーマンス。不特定多数、年齢もその時になってみなければ分からないから、その場でいくらでも変更が効くよう、いろいろなものを用意して出かけた。ハイテンションで乗り切った。子ども達をひきつける事には成功したかな。しかし、かなり消耗した。
17日、コンサートのリハーサルで原宿教会へ。オルガンと歌と朗読のコラボなのだが、わたしはオルガンと歌にうっとりとなっていた。彼女たちの演奏は素晴らしい。その音楽の中で朗読ができるというのは、なんとも贅沢で幸せな事だ。28日のコンサートが楽しみだ。 帰り道の靴店で、衣裳に合った靴を見つける事ができた。
18日、5クラス分の授業参観とその後の中学生クラスでのピザパーティー。朝9時半から夜9時半までの超ハードな一日。 しかし、一年の仕事の締めくくりだもの。残すは後3クラス、木曜日に。
19日、今日。昨日喉を使い過ぎたためか、のどの調子がまた悪くなったので、病院へ。本が読めるから病院行きは嫌いではない。 今日は自転車には乗らずに歩いて行ったので、あちこちで咲いている梅やレンギョウの花を楽しんだ。 どこかに薔薇が咲いていないかしらと探してみたものの、薔薇は見つける事ができなかった。いったいこの季節に咲く薔薇はどんな薔薇だろうと思いつつ。 そうそう、12日、英語学校での最期のクラスの日、素敵なフレームに入った子ども達の写真といっしょに、みんなから薔薇を一本づつもらった。深紅の美しい薔薇。今もテーブルの上で咲いている。
その忙しい1週間の間に、心は嵐に見舞われたように忙しかったと言える。 28日のコンサートで読むマグダラの物語の事も考えていた。 マリアはイエスの死を予感して、彼女の持っているものの中で、最も価値のあるナルドの香油をイエスの頭に注いだ。そうせずにはいられなかったマリアの激しい心の傾きと痛み―。ナルドの香油は彼女の存在そのもの。それをイエスに注いだ時、その事を常軌を逸した行為と非難するイエスの弟子達たちとマリアの行為を受け止め、その行為に意味を与えたイエス。そこにあるマリアとイエスの魂の出会いのこと。
そんなこんなな1週間は、受難節に相応しい一週間だったとも言える。 しばらく日記は書かないつもりでいたけれど、ここに来て下さる方が心配する場合もあるかもしれないと、まとめ書きをした。
*28日にモードを合わせるためにひとつところに集中したいので、ここ休む事になると思います。
|