たりたの日記
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2008年02月05日(火) |
チェーホフ著 「可愛い女」 |
今日は正津勉文学ゼミへでかける。テキストはチェーホフの「可愛い女」。 青空文庫・ここで読めます 主人公オーレンカについてはこれまで様々に議論されてきたようだ。トルストイを代表する肯定派とゴーリキーを代表する否定派(Kさんからのレポート)に分かれるという事だったが、今日の20名ほどのメンバーでもその二つに分かれた。肯定派がやや多かったかな。 わたしの場合、最初は否定派だったが、2週間後、肯定派に変化していた。 前の日記で書いたような気もするが、最初に読んだ時には、モーパッサンの「女の一生」の主人公のように主体性がなく運命に翻弄される弱い女性をそこに見て、自分の内にもその傾向は感じながらもそうありたくはないと思った。しかし、この作品の主題はもっと別のところにあると感じるようになった。オーレンカの生き方や想いを越えた、もっと普遍的なもの。一言で言うならば、愛とは何か、愛するという事はどういう事なのかというチェーホフの問いかけ。 以下はゼミに行く前に書いたレポート。
チェーホフ著 「可愛い女」を読む
わたしがこの作品の中でどこに強く心を惹きつけられるかといえば、オーレンカが三人の男に去られた後の失意の描写、 中でもいちばん始末の悪かったのは、彼女にもう意見というものが一つもないことだった。から始まる、愛する対象を失ったオーレンカの心情の描写の部分だ。 チェーホフはオーレンカという一人の女性を通して、人間が等しく見舞われる虚無の状態を非常に具体的に、また正確に描写していると思う。自分の意見が言えない哀れなオーレンカ、男に入れ込むことで自分を輝かせてきたオーレンカと、その有様を笑うようなスタイルを取りながら、実は人間が等しく持ちうるひとつの心の状態を描写している。
「今ではむらがる想いの間にも、ちょうどわが家の庭そっくりのがらんどうが出来てしまっていた。その何ともいえぬ気味わるさ、なんともいえぬ口の苦さは、蓬(よもぎ)をどっさり食べたあとのようだ」
この表現はどうだろう。我々に時折り起る、理由もなく不気味な、確かにむさむさと苦いひとつの心の状態が、みごとに書き表されているということに驚く。このように的確に虚無が作り出す心の状態を表現した言葉をわたしは他に知らない。
そしてチェーホフはこのオーレンカの嘆きの中に、巧みにその解決方法、虚無からの脱却法を明かしているのだ。
「いやいや彼女の欲しいのは、同じ愛といっても自分の全身全霊を、魂のありったけ、理性のありったけを、きゅっと引っつかんでくれるような愛、自分に思想を、生活の方向を与えてくれるような愛、自分の老い衰えていく血潮を温めてくれるような愛なのだ」
ここに、チェーホフの愛についての定義が見えないだろうか。 愛とは人間の全身全霊を、魂のありったけ理性のありったけを、ぎゅっと引っつかむもの。 愛とは人間に思想を、また生活の方向を与えるもの。 愛とは人間の老い衰えていく血潮を温めてくれるようなもの。 これを裏返せば、 愛がない時、人間の魂、理性は弛緩し、空ろになる。 愛がない時、人間は思想を、また生活の方向を失う。 愛がない時、人間は老い衰え、その血潮に温かさがなくなる。 そう、まさしく、失意の中にあるオーレンカの描写と重なる。
人間が愛する対象を失う時、何も愛せない心の状態こそが虚無、魂の死、キルケゴールの言うところの「死に至る病」。オーレンカこそは、その病に陥るまいと、愛する対象を常に求めてきた。一人の愛の対象に心酔するも、その男が死ぬや次の愛の対象にまたわが身を投じる。この事自体、彼女を責めることはできない。彼女は相手を愛した。相手からも愛され、その相手を裏切る事もなかったのだから、成熟した愛かどうかは別としてつまりは愛を全うしたのだ。そのオーレンカにも、チェーホフは魂の死を見舞う。オーレンカを虚無に沈める。ところがあたかも死と復活のように、チェーホフはオーレンカに愛する対象を再び贈る。もう若さを失っているオーレンカには今度は男性ではなく子どもだ。他人の子どもの中に自分を注ぎ込む。母性愛もまた人間を虚無から救うひとつの愛の形なのだ。
―彼女がこれまでに覚えた愛着のなかには、これほど深いものは一つとしてなかったし、また日一日と胸のうちに母性の愛情がつよく燃えあがってゆく現在ほどに、彼女がなんの見さかいもなしに慾も徳もはなれて、しん底から嬉しい気持ちで、自分の魂をささげる気になったことは、あとにも先にもただの一度もありはしなかった。彼女してみれば赤の他人のこの少年、その両の頬にあるえくぼ、そのぶかぶかの制帽、そのためなら、彼女は自分の命を投げだしても惜しくはなかったろう。それどころか、喜び勇んで、感動の涙を流しながら、命を投げだしたにちがいない。どういうわけで?だがそのわけを、いったいだれが知りえよう?。
この表現は、あまりに大げさな故に、またもや哀れな意志薄弱なオーレンカを読者に想い起こさせるが、ここにもチェーホフの愛の定義が見えている。 「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」 ヨハネによる福音書15章13節
愛には様々なカタチがある。死へと向かう愛もあれば、相手を抑圧するエゴイスティックな愛もある、盲目的な愛、献身的な愛、異性への愛、弱者への愛、神への愛。愛を言葉に置き換えることは難しい。しかしチェーホフは「可愛い女」の中で、それを試み、成功しているのではないだろうか。愛するという行為が人間に何をもたらすか、またそれを失う時人間はどうなるかが的確に書かれていると思うからだ。 この小説の主題は「愛とは何か」という事だろう。そのテーマは普遍的、また哲学的なものだが、読者はあくまで可愛い女、オーレンカの運命を辿り、ユーモアのたっぷり利いたストーリーに微笑み、また苦笑いする。面倒な事に頭や心を煩わされる事はない。けれども気が付けば心のどこかに可愛い女オーレンカが住み始めているのだ。男は男として、女は女として、また母は母として。愛とは何かという命題と共に。
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