たりたの日記
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2008年01月29日(火) |
金子光晴の詩との出会い 「かっこう」 |
火曜日は朝から仕事なので、早朝より夜まで家でゆっくりする時はないのだが、今日は午前中のクラスが休みなので、朝遅くまでベッドの中にいた。 眠りからは7時には醒めていたのだが、同居人もいない。布団にはいったまま朝の読書というめったにない贅沢をさせていただいた。
で、何を読んだかと言えば、ちくま日本文学全集「金子光晴」 激しく心を揺すぶられるものがあり、涙が溢れた。 詩人73歳の時の詩集「愛情69」の中の詩に。
なぜこの詩人の詩を素通りしてきたのだろう。そして今頃になって初めて出会ったように泣いているのだろう。 すべてにのことに時があると考えるなら今この時がこの詩人に、その詩に出会う時という事なのだろう。 70代の詩人の詩が心に強く響くそんな年齢を迎えたという事なのだろう。
3月28日のコンサートの中で読む詩を金子光晴の「かっこう」という詩にしたのは、たまたまプログラムにあるパイプオルガンの曲が「かっこう」という曲だったからだ。かっこうの事を歌った詩がないものかと探していた時見つけた詩だった。 「かっこう」というその詩に打たれるものがあったので、この詩人の事をもっと知りたい、もっと別の詩を読みたいと思ったのが、きっかけだった。 こんなささいなきっかけが思いもかけない大きな出会いになりそうな予感がある。 そのきっかけになったかっこうという詩はこういうもの。
かっこう 金子光晴
しぐれた林の奥で かっこうがなく。
うすやみのむかうで こだまがこたへる。
すんなりした梢たちが しづかに霧のおりるのをきいてゐる。
その霧が、しずくになって枝から しとしとと落ちるのを。
霧煙りにつづいてゐる路で、 僕は、あゆみを止めてきく。 さびしいかっこうの声を。
みぢんからできた水の幕をへだてた 永遠のはてからきこえる 単調なそのくり返しを。
僕の短い生涯の ながい時間をふりかへる。 うとうとしかった愛情と うらぎりの多かった時を。
別れたこひびとたちも ばらばらになった友も みんな、この霧のなかに散って 霧のはてのどこかにゐるのだろう。
いまはもう、さがしようもない。 はてからはてへ みつみつとこめる霧。 とりかへせない淋しさだけが 非常なはやさで流されてゐる。
霧の大海のあっち、こっちで、 よびかはす心と心のやうに、 かっこうがないてゐる。 かっこうがないてゐる。・・・・・
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