たりたの日記
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2008年01月21日(月) |
木津直人詩集「記憶祭」によせて |
今日は正津勉文学ゼミの日だ。 テキストは木津直人詩集「記憶祭」。 ここ数日間、20篇の詩を繰り返し朗読してきた。 声に出して読むことで、薄皮を剥ぐように僅かずつでもその作品の内部に入ってゆくことができる事を最近知ったからだ。自分の声がその作品の深さまで降りていっていない時、あるいは違った解釈をしている時、録音したものを聴くと良く分かる。 朗読は難しいが、とりわけ詩は難しいと思った。
木津直人詩集「記憶祭」によせて
たりたくみ
この詩集に4年前に出会った時、強い衝撃があった。 詩や文学、そういう視点からではなく、心理学的に。 わたし自身の中に存在するインナーチャイルドが強く反応した。子どもしか持ち得ない、子どもだから持ってしまう痛みや虚無や不安を、わたしはその詩の中の少年と共有した。 その時、大人のわたしの中に押し込められて言葉を見つけられなかったインナーチャイルドが自分の言葉を見つけられそうな予感を持ってしきりにわたしを突くのだった。 <コトバ、コトバ、コトバガアルナラ、コノショウネンノヨウニ、デテクルコトガデキル・> わたしはその心の動きのようなものを確か木津さんにメールでお伝えしたと思う。 けれども怠惰なわたしはせっかく動き始めたインナーチャイルドの声にいつか無関心になってしまった。いえ、怖かったのかもしれない。そこから何がでてくるかが。忘れようとしている子どもの頃の痛さを思いだす事から逃げ出したのだ。まだ準備ができていなかったのだろうか、それとも、もうその必要が無くなってしまったのだろうか。最近は子どもの頃の夢をさっぱり見なくなった。それはまたどういう事なのだろう。
今回、この詩集をわたしは声に出して繰り返し読んだ。最近はそうすることがわたしにとって最も作品の内側へと入ってゆく良い方法だと思っているからだ。最初に読んだ時と印象は変化していた。同じような子どもを見つけたと、あの時は共感しか感じ取れなかったが、今度はわたしのインナーチャイルドさえも入って行くことのできない、見知らぬ少年が見えてきた。透き通った固く厚いガラスの中に少年の姿が見える。そしてその少年は別に誰も内側へ入ってきてほしくないのだとそんな気がした。完結した孤独、よりかからずそれ自体で立っていることのできる孤独が少年と共にあると。
この詩は声にするのが難しい。ずいぶん深いひそやかな部分から汲み上げられている削がれた言葉なので、わたしの発するどのトーンもそこまでは降りてゆけない。 いつか、これらの詩を、その世界を損なう事なく声に現すことができたらと思う。
2008年1月21日
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