たりたの日記
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2007年12月08日(土) 「クリスマス・キャロル」の朗読会へ

この日、キッド・アイラック・アート・ホールでの朗読会へ。
青木裕子さんの朗読でチャールズ・ディケンズの「クリスマス・キャロル」を聴く幸運に恵まれた。
朗読の合間に、小澤章代さんのスピネットと孕石靖夫さんのリコーダーでいくつものクリスマス・キャロルが演奏され、この季節に相応しい、クリスマスの豊かな贈り物のような朗読会だった。

「クリスマス・キャロル」は以前に読んだり、映画で見たりした事はあったものの、どこかわたしとは遠い物語だった。ところが、この朗読会では、生生しいほどに、スクルージの闇とその後にやってくる光とを感じた。スクルージを回心に導くクリスマスの精霊は、ストーリーの世界を超えて、わたしの側で、わたしの内側をじっと見つめているようなそんな感覚さえあった。
ファンタジーの持つ力、それを引き出す朗読者の朗読。

実はスクルージではないが、身につまされる事があるのだ。
あれほど大好きで、わくわくしてきたクリスマスに、ここのところ年々疲れを覚えている。かつて、クリスマスの時期になると決まってやってきた事、人を喜ばせようとやってきた様々な事をここのところめっきりとやらなくなってしまっている。やりたくないと投げ出したい気持ちにすらなる。それはクリスマスの事に限ったことではない。暮れの仕度や年賀状なども。

例えば、山のようにクッキーやケーキを焼いてはあちらこちらへ配ったり、家族や友人への贈り物を買ったり作る事に喜びを感じ、家の内や外を様々に飾りつけた。12月の間は一日中クリスマスキャロルをかけて過ごしていた。そうせずにはいられない精神の高揚のようなものが決まって訪れていた。それは子どもの頃からつい数年前まで続いていたことでもあった。

クリスマス・キャロルのプロットを拝借するならば、過去のクリスマスの精霊が、わたしの過去のクリスマスを照らし出し、現在のクリスマスの精霊が、今の、クリスマスの喜びを感じる事のできないわたしの内面を照らし出す、そんな感じだ。

いったいあの時のわきたつような喜びは何によってもたらされていたのだろう。そして今、それがないという事は、わたしの心に、もしかすると身体(これは更年期のウツ状態にも似たものではないかと疑いを持っている)に、どのような変化が起ったのだろう。
スクルージは、クリスマスの精霊から憑かれた後、貪欲の縄目から開放されて、与える事を喜びとする人間へと生まれ変わるのだが、わたしは反対に失っている。

しかし、まぁ、こういう気づきを与えてくれたり、こういった朗読会へわたしを導いてくれるのもクリスマスの精霊の仕業なのかもしれない。そういう事を考えながら、昨日は12月に入って初めて、クリスマス・キャロルのCD(吉沢実さんのリコーダー演奏による「クリスマス・パストラル」)を聞きながら、バナナケーキを焼く事ができた。明日のクラス用、日曜日の英語学校のパーティー用、そしてお見舞い用にも。

まだ、いくつかのクリスマス会、家族や親や甥っ子達へのクリスマスプレゼントやお歳暮、クリスマスカード、年賀状、お見舞いと、クリスマススピリットに導かれたい事がたくさん控えている。
何とか、心晴れやかにこの季節を迎えたいものだ。



朗読会の翌日、このストーリーに興味をおぼえ、「クリスマス・キャロル」の原作に当たってみた。確かに一冊、読まないで買っていた古本の洋書があったはずだと探してみたが、どうやら処分してしまったらしい。
古いものだからネットで読めるかもしれないと探してみると、アメリカのサイトに「クリスマス・キャロル」やディケンズに関するサイトが山ほどある事が分かった。その中にディケンス自身が自作朗読会用に要約した「クリスマスキャロル」の原文が読めるサイトが見つかったので、A Christmas Carol のテキストをダウンロードする。用紙22枚くらいのものだった。

原文でしか、味わえないリズムや言い回しなどが面白いと思った。
また何気なく、善男善女の集まる教会を批判しているところがあって、ディケンズの信仰のありどころが見えるようだった。この部分には自戒も含めて共感したのだ。

この要約版をそのまま翻訳したと思われるものも青空文庫で見つける事ができた。訳が古いので、分かりやすいとは言えないが、手っ取り早く読めてよかった。翻訳は、夏目漱石の門下にあった森田草平。かの平塚らいてうと心中未遂をした青年作家とは彼の事だった。これも新しい発見。

森田草平訳、「クリスマス・カロル」


たりたくみ |MAILHomePage

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