たりたの日記
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2007年08月12日(日) |
路上のアーティスト達 |
そう、突然、風が通り抜ける。 人だったり、踊りだったり、歌だったり、絵だったり。日常の中をすっと通り抜ける非日常の風。
アンバー(あ、彼女は同僚のネイティブの英語の先生。この前サマースクールを手伝ってくれた彼女。この前の日記に写真もあるね)のお誘いで路上ライブに出かける。 もうずいぶん前から彼女の愛するバンド、トラッシュ・ボックス・ジャムトラッシュ・ボックス・ジャムの話はたくさん聞いていた。クリスチャンの彼女は彼らの中にイエス的なものを感じるという。 分かるよ、それ。そう、イエスは何も教会の中だけにいるんじゃない。言葉にすれば安っぽくなってしまうけれど、”愛”のあるところにイエスは佇んでいる、そこにいるんだから。 教会の外の世界にそれを見つけて、そこにいる人たちを大切にしている彼女はいい。今までに出会ったアメリカ人の青年宣教師たちとはちょっと違う。
「すべての事には時があるという」聖書の言葉があるけれど、今日はその「時」らしかった。教会での日曜礼拝の後、いろいろと雑用を片付け、牧師から韓国のホットなラーメンをごちそうになった後、わたしはそのまま大宮駅へ出かけた。
さてさて、アンバーはどこだ・・・ 日曜日の大宮駅はいつも人で溢れ返っている。バンドもあちらにもこちらにもいるし・・・ いたいた! たくさんの自作のポストカードを売っているしんぐさん(バンド、トラッシュボックスのリーダー&ヴォーカル)の前に他の女の子達といっしょに座っているアンバーは英語の先生の顔とも、教会の宣教師の顔とも違った顔でその場に馴染んでいた。彼女は自分のスケッチブックでなかなか素敵なイマジネーションの花を描いている。それでわたしも路上にぺたりと座り、紙切れと鉛筆を貸してもらい、彼女の横顔を描き始める。
少し離れたところにKさんが店開きをしていたので似顔絵を描いていただく。「似顔絵を描いてもらった事はありますか」と尋ねられて、そういえば、こうしてストリートで似顔絵を描いてもらうというのは初めてだという事に気が付いた。日曜画家の父のモデルになった事や、mGの絵のモデルになった事を除いては。
似顔絵を描いてもらいながら、似顔絵というのは埴輪の時代から脈脈と続いているひとつの文化だという話を伺った。写真がなかった頃は似顔絵屋がその人の存在を視覚的に留める重要な役割を果たしていたわけだ。そして似顔絵を描くという行為は、この世の中で一人きりしか存在しない、その人をよおく観察する行為なのだと思い当たる。顔かたちだけではなく、その人の内面までも・・・ 似顔絵のわたしはわたしが良く知っているわたしとわたしが知らないわたしが混ざり合っていた。他者の眼に映る自分というものが興味深かった。 ところで、似顔絵屋のKさんさいたま市から自転車で2時間かけて都内の職場まで通っているというのだから凄い!そんな話は初めて聞いた。自転車乗りのたりたとしてはおおいに励まされた。
それまでポストカードを売ったり、似顔絵を描いたり、キーボードでソロの弾き語りをしていたバンドのメンバーが大宮駅コンコースのちょうど真ん中あたりで演奏を始めた。いわゆる路上ライブだ。 彼らの前のアンバーや他の若い子たちに混じってまたまた路上にペタリと座り込む。立ってそこを通り抜けていくのと、通り行く人達を上目使いに眺めながらそこに座しているのとでは気持ちの上で随分大きな違いがある。 そうそう日常にぽかんと穴があいたような、ファンタジーが訪れる。音楽も歌われている言葉もポジティブだ。聴いていて元気が出てくる歌だった。 ふとマンハッタンのストリートミュージシャンや、セントラルパークのヴァイオリン弾きや、深夜のリンカーンセンター前広場でのダンスの群れがフラッシュバックする。そこにはあった枠が外された開放感のようなものが、ここにもあるからなのだろう。 そうそういつかなおさん(ダンスの先生)と中野サンプラザの広場でエイサー踊った時、あの時にも感じた自由さ。
路上のアーティスト達ははるか昔から存在して、路で詩を吟じ、音楽を奏で、絵を描き、人々の辛い暮らしの中にハレの開放と非日常を吹き込む「まれびと」の役割を果たしてきた。 今を生きる路上のアーティスト達、これからも街の喧騒の中に爽やかな風を吹き込んでいくことだろう。
彼らのCDを一枚求めて、軽やかな気分で人混みの中、電車へ向かった。 わたしのしっぽ?しっぽはきっとわたしの背中でゆさゆさと揺れていたに違いない。
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