たりたの日記
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2007年07月13日(金) 心を沈めて家事をしよう

仕事のない金曜日。
夕方から英語学校のスタッフミーティングにでかけるから、午後ジムでストレッチやヨガのクラスをやってからそのまま大宮へ出よう、そう昨夜まではプランしていたが、今日は夕方までは家にいて片付けや掃除をする事にした。

わたしは行動的だと人に言われる。確かにいくつもの事をかけもちし、渡り歩き、しょっちゅう自分の外へと向かっている。けれどもしばらくその時が続くと、猛烈に篭りたい欲求が起る。それは1日や2日の事もあれば、もっと長い間、例えば数年ということもある。

この春くらいからそういうエネルギーの変化を感じている。
人の中にいるよりは一人でいたい、人といっしょに何か創り上げることに対してのエネルギー不足を感じている。もっと別の言葉で置き換えれば、陽から陰へのシフト、そんな感じ。

一方でNPOの無認可保育園の代表理事の仕事が回ってきて、様々な事情からこれを避ける訳にはいかない。わたしの快楽とは反対の方向にあるもの、これまでであれば避けてきたもの。でも担わなければならないという自覚がある。

それで、シモーヌ・ヴェイユなのだろう。
彼女の言葉が浸透し、深く慰められる。
そういえば、ミクシーに昨日の日記を貼り付けたらAさんが

< なんか深いですねぇ。 >というコメントを残してくれたから
その後にこんなレスを書いた


そう、果てしなく深いのでわたしはようやく上澄みだけを眺めることができるように感じています。

たとえば、キリストの十字架についたの記述


<十字架の苦しみの最後の刹那に見捨てられるということ、どちら側にも、なんという愛の深淵があることだろう。
          *
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
ここにこそ、キリスト教がなにかしら神よりのものだという真実の証拠がある。」 >

シモーヌ・ヴェイユ著「重力と恩寵」
<十字架>より


昨日夜遅く、6月30日の岩手山行きの短い日記と写真、7月1日の早池峰山での写真とミクシーに書いていた「賢治の山を巡って」の日記を貼り付けた。
ここではもっと詳しい山の記録を書くつもりだったが、いつその気分がやってくるかどうか分からないから。


ということで、今日は心を沈めて家事をしよう。

ここまで書いて今気が付いた。
今週の日曜日の礼拝で読まれた聖書の箇所のこと。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」というイエスの言葉。




ルカによる福音書

9:18−26

 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」
 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、 次のように言われた。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
それから、イエスは皆に言われた。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。







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