たりたの日記
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2007年06月04日(月) 菅原克己という詩人

今日の正津勉・文学ゼミは菅原克己という詩人の詩についてだった。

この2週間ばかり、この詩人の詩と共にあった。
例えばカフェとか、例えば電車の中とか、行く先々でその詩を持ち歩いては読んでいた。もちろん家でも。

家では声に出して何度も読んだ。
読むほどにその詩をとりまいている空気が自分の空気に混ざってきて、わたしは少しも哀しいことなど無いというのに、とても哀しく、さびしくなってしまうのだった。

そしてどういう訳だか、わが同居人の事が浮かんだ。
理由は良く分からない。
いや分かっている。ほんとうは。
ただ言葉にすると、うそっぽくなる。

「マクシム」という詩は友部正人が歌っているし、また別の詩、「ブラザー軒」は高田渡が歌っている。
二人とも、高校時代のわたしのアイドルだったが、この詩人の事は今の今まで知らなかった。

ところが、ひとつ、その詩がこの詩人の詩とは意識する事なく、深く心に落ちてきた詩を読んでいた。「光子」という、詩人が自分の妻の事を詠った詩だ。
正津先生がBゼミのサイトで愛の詩のアンソロジーを連載されていた事があったが、その中に「光子」という詩について書かれた文章があった事を思い出した。

この時期に、この詩人に巡り会えた事は良かった。
何か、不確かだったものが確かに見えてくるような、目の曇りがすっきりと晴れるようなそんな変化が起る。
例えば、この「マクシム」という詩の中の

 みんなほんとうだった。
若い時分のことはみんなほんとうだった。

というフレーズ。
「ほんとうではない」ことにまみれ、自分自身も「ほんとうではない」ことに侵され、その事に密かに傷つき、詩人は昔の記憶の中から「ほんとう」を手繰り寄せては言葉にしているように思える。
その痛々しさのようなものが胸に迫る。
この詩人の詩にはどの詩にも「ほんとう」を探す、うなだれたひたむきさが見えている。


「ほんとう?」
わたしは自分の「ほんとう」と「ほんとうでないもの」をじいっと見極めようとする目になっていた。



「マクシム」

                   菅原 克己

誰かの詩にあったようだが
誰だか思い出せない。
労働者かしら、
それとも芝居のせりふだったろうか。
だが、自分で自分の肩をたたくような
この言葉が好きだ。
<マクシム、どうだ、
 青空を見ようじゃねえか>

むかし、ぼくは持っていた
汚れたレインコートと、夢を。
ぼくの好きな娘は死んだ。
ぼくは馘(くび)になった。
馘になって公園のベンチで弁当を食べた。

ぼくは留置場へ入った。
入ったら金網の前で
いやというほど殴られた。
ある日、ぼくは河っぷちで
自分で自分を元気づけた、
<マクシム、どうだ、
 青空を見ようじゃねえか>

のろまな時のひと打ちに、
いまでは笑ってなんでも話せる。
だが、
馘も、ブタ箱も、死んだ娘も、
みんなほんとうだった。
若い時分のことはみんなほんとうだった。
汚れたレインコートでくるんだ
夢も、未来も……。

言ってごらん、
もしも、若い君が苦労したら、
何か落目で、
自分がかわいそうになったら、
その時にはちょっと胸をはって、
むかしのぼくのように言ってごらん、
<マクシム、どうだ、
 青空を見ようじゃねえか>




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