たりたの日記
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2007年02月16日(金) |
陽だまりの中、しばし本を抱えて |
昨日は就職活動中の次男が、面接の帰りだと言って戻ってきた。 この頃は2合炊いても2日は間に合うのに、3合炊いていた白米があっという間に無くなった。 そうそう、少し前まではこんなで、わたしは朝から夜まで家族の食べ物の事を考えていなくてはならなかったと思い出した。
「ぼくのバレンタインのチョコはないの?」
「ないわよ。今日帰ってくるなんて知らなかったもん。 おとうさんにあげたのがまだ残ってるかも・・・」
「それもらっちゃ、悪いよ〜」
こんな 会話をするようじゃ、彼女はいないんだろうな。 刈り込んだ就活カットと就活スーツに就活コートという井出達は、ずいぶん大人っぽく見えはするものの。
彼は友だちの写真展に行くとかで、午前中に出かけてしまったから、わたしは予定していない時間がポンと空いた。 読みかけの本、今日届いたばかりの本を抱えて陽だまりの中、ソファーにどっかりと座りこむ。
宮澤賢治著「雪わたり」を朗読した後、宮澤賢治詩集からと永瀬清子詩集から思いつくままに選んで朗読する。 今日届いた長谷川勝彦(元NHKアナウンサー)著「メディアの日本語―音声はどう伝えているか」を読んだ。この本はアナウンサーやナレーターのために書かれた本だが、朗読にも通じるところがあり勉強になった。 もうひとつ届いた本、アンリ・カファレル著、高橋たか子訳「神、この、もっとも曲解された名」は、手にする事ができて心からうれしい本だった。 はじめの数ページとキルケゴールの文章を二つ読む。これは、一日にひとつづつくらいのペースでゆっくり繰り返し読むといった本だ。ここから得るものの大きさは測り知れない気がする。 先日から宮澤賢治に関するものをいろいろと調べているが、実家の父親の書架から持ってきた昭和53年2月号の「国文学」、宮澤賢治特集、吉本隆明著「賢治文学におけるユートピア」は、賢治の視線がどこにあるのかという分析が<目から鱗>状態だった。
ところで、詩人の永瀬清子は宮澤賢治の研究者ということで、この二者には繋がりがあるが、永瀬清子の詩集の中に、マグラダのマリアによせて書かれた詩(喪の夜は いま明けようとして)があり、永瀬氏の聖書理解、イエス理解の深さとしなやかさにいたく満足した。
そう、この詩人も「飢え渇き」を詩のテーマとしている。 マグラダのマリアの心情を分かるには「渇き」の自覚が必要なのだ。 そういう意味では、「すきとおったたべもの」を求め続けた賢治もまたそれを知る人。
さて、さて、本を閉じよう。 夕飯の支度をすませたら、今日はダンスの練習をするのだった。 明日、明後日は、きっとダンスモード。 身体を使って表現するということ、そこに気持ちを集中させるとしよう。
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