たりたの日記
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2007年01月18日(木) |
高橋たか子、自選エッセイ集「どこか或る家」 |
高橋たか子の自選エッセイ集「が昨年暮れに出版された。 著者自身が「私らしい文章40篇を厳選した」と記しているように、ひとりの作家のエッセンスがここに凝縮している意味深い一冊だ。
これまで高橋氏の著作を読み続けてきた者としては、個々の著作が、どのように関係しあっているのかを知ると共に、どの文章からも立ち上ってくるひとつの香り、ひとつの響きに改めて浸ることができた。
小説であれ、エッセイであれ、高橋氏の言葉には甘さや、虚飾がない。すみずみにまで、氏の魂から出てきた「本当」の言葉に満ちている。ある時、それは孤独であり、また闇であり、読者はいやおうなく、生ぬるい日常から、荒野のような場所へ投げ出される。このことについて、氏はこのエッセイ集の「なぜカトリックになったか」の中でこう語っている。 <一人の人間の中の他人と通じあえる部分は、わざわざ書くに値しない。決して通じあえぬ、他人が知りようもない部分を、あらゆる人間がかかえているという、この孤独こそ、人間存在のキイポイントだと思うから。――中略―― そして他人の決して知りようもない、一人の人間の内部にこそ、神が出現するのだ、と思えるようになった。>
わたしは、<魂の「夜」を描くのがキリスト教文学の一つの立場である。「夜」にこそ神がかかわっているのだから>という氏の主張に共鳴を覚える者だが、氏の文学は自らを「救われた者」の側に置き、他者を「救い」に導こうというような物ではない。それどころか、氏の文学はある意味で人間の虚無を、また深淵を覗かせてくれる。我々が覗くことを恐れる虚無や孤独を醒めた視線でここまで書き切ることができるのは、その向こうに光を捕らえているからなのだと思う。
氏の著作を読んでいると、わたしはまだまだ醒めて、深淵へと降りていかねばならない、いえ、降りていっても大丈夫なのだという気持ちにさせられる。
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