たりたの日記
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2007年01月06日(土) |
映画 「こほろぎ嬢」 を観た日 |
わたしはこの朝、何やらとても不思議な感覚の中で目覚めた。 この日は、秋口から楽しみにしてきた「こほろぎ嬢」の映画を観にゆく日だ。
窓の外には天気予報に違わず、冬の冷たい雨が降っていたのだが、その雨の中を出かけてゆくことが少しも嫌に思われなかった。 「こほろぎ嬢」の映画を観にゆくのに、この雨こそふさわしいではないか。<神経病にかかっているらしい桐の花の匂が雨傘に入ってくる>ような5月の雨でなくとも、霞のかかった栗林の脇を通って、冷たい雨に打たれて駅まで歩いてゆくのは、この日にとてもふさわしい。
さて、冷たい雨の中に出てゆくにはまだ午前中の時間がたっぷりとある。池袋のパン屋さんのカフェで女友達のJと待ち合わせをしている時間は3時だ。 そういえば、待ち合わせの場所がパン屋というのも、なかなかふさわしい。こおろぎ嬢は、その物語の最後で、地下の食堂でねじパンを一本食べるのだ。そしてわたしはずっとそのパンの事が心にかかっていた。待ち合わせのパン屋のカフェで、わたしはきっとそのような物を食べることになるのだろう。
さて、午前中、わたしはその時のわたしの気分に従って、お風呂を沸かす事にした。かすかな花の香りのするミルクのように真っ白い入浴剤を湯の中に入れて、その中で本を読むというのがその朝の気分だった。持ち込む本は尾崎翠に決まっている。 白い、良い香りのお湯の中で首だけ出して、わたしは「こおろぎ嬢」をゆっくり声に出して読み始めた。
この物語が75年も昔に尾崎翠という人によって書かれた文章ということは充分わかっていても、こうして読んでいると、まるで自分の心の中からでてきたような、すでにこの世界を知っているような気持ちになる。きっと尾崎翠を読む人はみなそんな気分になるものなのだろう。 尾崎翠の書いたものが、今切ったばかりの花の茎のように新しいのは、読む度、読者の心に新しい切り口をつけるからなんだろうか、読むという行為が、心に何かを起こすのだ。不思議な化学変化が心に起こるのをわたしは何度も味わってきた。
さて、わたしにとってそういう特別な作用をもたらす物語を今日は映像で観ることができるというのだ。わたしの心の中でしか見ることのできないその映像が、劇場のスクリーンの上に展開されるとは、何と興味深いことだろう。しかもこの作品を手がけた浜野佐知監督のお話も聞けるらしい。そういう幸運はめったにあることではない。 わたしはわたしの心の中だけで起こる世界から、一歩、そこに他の人が、実際に生きている生身の人間がかかわっている場所へようやくでかけていくチャンスをもらったらしい。 求めているものはいつも、ふっとある折に、それも絶妙なタイミングで向こうからやってくることが多いが、今回のこともそんな具合。 Jがコミュを立ち上げた音楽家、吉岡しげ美さんのコミュを通して、この映画上映の事を知った。吉岡しげ美さんは女性詩人の詩に作曲し歌うという活動を続けてこられた方。その吉岡さんが「こほろぎ嬢」の音楽を担当されている。
午後1時過ぎ、朝の雨はますます強くなっていて、わたしは駅に着くまでの間、たっぷりと雨を浴びてしまったけれど、けっこう楽しく歩いたのだった。 電車を乗り継ぎ、3時前にはパン屋のカフェに着いた。そこで、チョコレートを練りこんだようなうずまきパンを一口食べたところで、女友達のJが目の前に現れた。
積る話をし、二人で、また雨の中、下北沢のシネマアートンへ。チケットブースの前に赤みを帯びた灯りが灯っているその映画観は、名前も尾崎翠の作品のひとつ「地下室アントン」と響きが似ていて、なんとも似つかわしい。 わたし達は映画の始まる30分以上も前に着いたので、映画館の中のカフェでお茶でもいただこうと、奥へ入っていくと、そこに浜野佐知監督がいらして、映画の後のトークショーを待たずに、監督とお話する好機に恵まれた。
浜野監督の存在を知ったのは1年半前のこと。初めて尾崎翠を読んで、その世界に驚き、夢中になって調べている内に「第七官界彷徨 尾崎翠を探して」の映画に行き当たった。凄い女性の監督が存在する、その人が尾崎翠の世界を映像化している―。この映画を観てみたいが自主上映の映画なので、なかなか観ることもかなわなかった。 その時からずっと心にかかってきた映画であり監督だったのだ。その方と間向かいで話しているという不思議。
ネットでその風貌を拝見した時には、サングラスにロングヘア、フェミニストのリーダー、強そうで怖そうな近寄り難い方という印象があったが、お会いして話してみると、気さくで暖かく、何とも屈託のない方だった。このように垣根を張り巡らしておられないアーティストも珍しいのではないかしら。 わたしはひとりの観客に過ぎないのに、監督とお話しているという緊張なんかもなくって、映画の事をお聞きしたり、尾崎翠への想いを伝えたりと、自然に言葉が出て来た。お話の中で監督のこの映画にかけた想いが、また尾崎翠への想いが伝わってきて、わたしはひどく共感し、その空気を貪り吸っていたことだった。
映画が始まる。すべて鳥取でのロケで撮ったという映画。冒頭のシーンは砂丘の中をゆっくりと歩いてくる小野町子。菖蒲の花、古い家、おばあさんの家の屋根裏部屋、ひとつひとつの映像の美しい事。あぁ、わたしが心の中で描いていた尾崎翠の世界と違わない、あの透き通った世界だと思う。 音。吉岡さんのピアノの音はそこにある空気の中に溶け込み、木々や風や花、スクリーンに映しだされる美しい自然と渾然一体となっているのだった。
それからはもう、わたしの心の中の世界が映画の中に入ってゆくようで、あるいは映画の世界がそっくり心に中に押し寄せてくるようで、まるで夢見ごこちだった。観ている内に心が膨らんでくるのが分かる。広がってゆく―どこへ。ずいぶん遠く、大げさに言えば宇宙にまで広がってゆくような、そんな気持ちよさ。
そのように感じていると映画の最後のシーンで宇宙の映像が現れた。そしてスクリーンに浮かび出た言葉、
「宇宙に、あまねく、存在する、すべての、孤独な、魂へ」
この言葉が気持ちに入ってきた瞬間にうっとこみ上げるものがあり、わたしがどういうわけで翠に惹かれているのか、どうしてこの映画を観ることに、このような喜びを覚えるのか、瞬間、その謎が解ける気がした。 トークショーの場で、このフレーズの出典を伺うと、脚本を手がけた山崎那紀氏の言葉だということが分かった。またそのフレーズを使うかどうか迷われたというお話も伺うことができた。ここにも、「降りてくる言葉」を想った。
孤独、センチメンタルなそれではない、ネガティブなそれではない、その人を立たせ、前へと進ませる強靭な孤独。わたしの拠り所でもあるその孤独に翠がタッチするからだと納得したのだった。
この地上で、わたしたちはそれぞれに与えられた一本道を歩いている。その道は一人でしか歩きようがないのだから人はすべからく孤独なのだ。そこをしっかり見ているかどうか、そのことに怖れることなく、ひとりであることに充足しているかどうか。自分の歩みを信頼しているかどうか。
尾崎翠という人は、時代の影響からも当時の社会や、女性ということからも自由に、自分の道を自分らしく生き切った女性だった。 この映画を産み出した浜野監督も、そして同じように独りを歩いてきた女たちの詩を歌い続ける吉岡しげ美さんもまた、強靭な独りの道を果敢に歩んでおられるのだろう。
わたしはわたしの足元をもう一度確かめてみようと思った。その足取りが確かかどうか。
この映画、また浜野佐知監督の作品については 旦々舎NEWS をごらんください。
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