たりたの日記
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2006年11月13日(月) 文学ゼミ、平林たい子をめぐって

昨日のゼミの事、平林たい子の「鬼子母神」は酷評が圧倒的だった。その作品だけでなく、彼女の行動や、人間性に至るまで、ほぼ全員がネガティブな意見を語った。
わたし自身、厳しい事を言っておきながら、しまいの方になると、何もそこまで言わなくても・・・と、何か作家の肩を持ちたい気持ちになってきた。

―平林たい子の場合、書くという行為も、かかわってきたフェミニズム運動や社会主義運動も、また夫や関係を持った男たちも、自らを英雄として立たせるための道具であり、そこに自分の信条や愛情を注いだというのではなかったのではないか―とわたしは語ったが、そしてそれはそれほど間違った見方ではないとは思うが、しかし、それは作家として、一人の芸術家として、それほど責められることなのだろうか。

人それぞれ書くということの動機は違う。
平林は徹底的に「我」に拘った。自分を分析し、自分の心に起こったことを見つめ、文章にした。
それはある部分ではその人自身よりも丈高く書かれてはいるし、明らかに、書くことで自分の汚名を晴らし、自分を傷つけた相手に復讐しようというような情動を底に見る。

けれども、平林たい子はその時代にあって、彼女の役割を、その限界の中で果たし終えたことは確かだろう。
他者を喰って自分を立てようとする人間の悲しい性は何も彼女に限ったものではない。それはむしろ、我々が共通して持つ、ひとつの「罪」だ。
多かれ少なかれ、人間は、他を食い物にして生き伸びているのだ。

しかし、他人の子どもを食っていた鬼子母神が、お釈迦様に導かれ、やがては母性を象徴する神として祭られるようになったように、自らを子を喰らう鬼子母神と重ねる平林たい子にあっても、その個性を彼女の作品として結実する道を与えられたのではないだろうか。そして、それらの作品はその時代の女達をおおいに前へと進ませる役割を果たしたに違いない。

ゼミの帰り道、もうこれでこの課題は終わったというのに、まだ読んでいなかった作品にかなり没頭して読んだ。なぜだか分からないが、その人についても作品についても気の済むまで追ってみたい気持ちになる。

この日記はゼミの後の感想で、わたし自身のこの作品の感想ではない。
感想はまた改めて。(というばかりで書かないでいるものが無数にあるが)


たりたくみ |MAILHomePage

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