たりたの日記
DiaryINDEX|past|will
2006年10月30日(月) |
結城信一「空の細道」を読む |
正津勉文学ゼミの日。 今回のテキストは結城信一の「空の細道」。
はじめて知った作家だった。 結城信一、1918年〜84年。昭和26年「蛍草」でデビューし、昭和55年「空の細道」で日本文学大賞を受賞している。
どのような賞を受賞しているとか、名前が知られていないとか、ある意味では、わたしにはどうでもいいこと。 関心があることは、その作品から何かしらの働きかけがあるや否や。 その作品を知ることで、知らなかった時とは異なる何かが自身の内に生まれるか否か。
そう、批判をするために本を読む気などさらさらない。 出会いを求めている。 その出会いがほんものならば、そこには何かが起こる。そこから広がってゆくもの、深くなってゆくものがきっとある。 その時にはまだ眠る種のようにひっそりとしていたとしても。
結城信一のこの作品が、とてもわたし自身に近く寄り添ってくるのを感じていた。はじめの数行でそれと分かる。
山形老人は夏の強い日差しの中、庭の片隅に30分あまりもうずくまり、漆のような黒い背中を見せてゆっくり歩く虫を見つめている。 その虫が30年前の佳子の化身のように見えるのだ。
75歳の山形老人の夢の中に、また日常の中に紛れ込む幻想の中に、16歳で死んだ娘の秋子が、また秋子の友人だった佳子がいつも現れる。この佳子も18歳で死んでいる。 二人の少女は孤独な山形老人を慰める者として幻想の中に現れる。佳子は娘の友人という事を越え、ひとりの女性として老人のからだの奥に仄かに炎えるものを走らせるもする。
二人の少女達は老人がこれから向かおうとする死の世界に属する者たち。 老人を癒す者、老人を愛し、受け入れる者の象徴。 それがなくては生きることの難しい心の支え。 例えそれが目には見えない幻想の中の者であったとしても。
二人の少女達の対極にあるのは、山形老人の息子だろう。 老人の退職金の半分をもらった息子は「オヤジはあと、いくら頑張ったところで、二十一世紀までは持たないな」と言う。 老人は息子から拒絶されたと感じている。
この息子の象徴するものは、自分が死ぬことなど考えることもできない「この世」の人達だろう。 そこには、老人の夢の中の、内に60本もの針を隠し持つ、悪意の象徴のような白い人形と通じるものがある。 おそらく老人は、息子に限らず、独居老人として世間の冷たさや悪意に晒されることが多々あるのだろう。「この世」からの不理解を避け、「あの世」の少女達のところに逃げ込もうとするかのようだ。
老人はいつの頃からか、<果てしなく、黒い海原が背にひろがって、そのまま老人を、呑みこんで行きそうだ>と感じるようになっていた。ここにも象徴がある。人間が等しく感じる「虚無感」それはキルケゴールの言う「死に至る病」、魂の死、そのもの。
しかし老人は仰いだ空のなかに、<今まで気づくことのなかった空の一角に、細い道があるらしいと知る>のである。突然に知るということ。宗教的覚醒とも、悟りともいうべき境地の事ではないだろうか。 この道を辿ってゆく限り、自分の背後にひろがる黒い海原に呑み込まれることはないという確信がそこにはあるのかもしれない。 死は無ではなくその向こうにある世界へと入ってゆくことだと。 この作品の最後で、山形老人がつぶやく言葉は印象的だ
<・・・・秋子だけではない、佳子も、か。その、ふたりで、来てほしい、と呼びかけているのか。そうか、その道ならもうできている・・・>
この老人の心境は、しかし、老人特有のものだろうか。 わたしはこの老人の気持ちの動きが自分の事として良く分かるのである。それはわたしが50歳という年齢に達したからではない。子どもの頃から漠然と感じてきたこと。 「この世」の意地悪さや理解のなさから逃げ出すすべをいつも手の内に握りしめておかなければと感じていた。 「この世」にはない真実が、愛が、「あの世」にあると確信し、そこからやってくる人達と心を通わせることでわたしは今に至るまで生きてきたと思っている。
老人にとっての少女達、わたしの「あの世」からやってくるものは、神、そしてキリスト。詩人や小説家であったり、また音楽家であったり。小説の登場人物でもあれば、現実の人間のその人を透かして見えるもの(魂と呼びたい)であったりする。 それはいつも死を知っている。死を帯びていると言ってもよい。 豊かな死を、決して暗い海などではない、豊穣な死を。 「空の細道」を歩く時、わたしに「こっちへ」と呼びかけるもの。
結城信一は21歳の時に出会った13歳の少女を「わたしの少女」として、生涯、その少女のイメージや少女とのかかわりをモチーフに作品を書いてきた特異な作家だ。 フェチシズムという点では、それは川端康成や谷崎潤一郎ほどの強烈さはない。わたしは一人の少女への固執を、少女趣味やフェチシズムといった性的なものとしてではなく、むしろ宗教的なものとして受け止めた。 ひとつのものを、自分が寄って立つものと定め、そこから物事を見、表現しようとする動かない、静かな視線― 結城氏の他の作品を読もうと思う。 ひとつの出会い、先へと広がり、どこかへと繋がるであろう出会いだった。
|