たりたの日記
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2006年10月14日(土) |
映画「ハリヨの夏」を観に |
10月14日、映画ハリヨの夏の初日、シネマート六本木へ。
「ハリヨの夏」のオフィシャルサイトで写真を見、音楽を聴いていたからか、スクリーンの世界はすでに親しくなつかしい場所だった。 そこにわたしのふるさとの川や、わたしの父や母、そして17歳の時の恋と失恋とが重なる。 17歳、今考えても重い時だった。
映画の主人公、17歳の瑞穂の日々も重い。 自分をもてあましている。 やぶれかぶれ。 寂しさをどうすればいいのか、愛する事がどういうことなのか、分からない。 孤独―親や友人でも埋めることのできない孤独は自覚していても、その正体は知らない。それと折り合う方法もまた。 訳もなく、何かに対して焦っている。 自分の足で立ちたいのに、立てないことのもどかしさ。 何かに取りすがりたい、それでいて自分の足だけで立ちたい。 この危うさ・・・
乗れもしないバイクを横取りし、無茶な運転をして転げる。 男性との関係を結ぼうとするのも、それと同質の衝動からだろう。 そうでもしなければいられない嵐のような心。 どうしたら沈める事ができるのか、どうしたら自分を生きることができるのか、怒りも悲しさも愛もその行き場を見つけられず、自分の中で吹きすさぶ嵐。 きっとたくさんの17歳がそのような得体の知れないものに捉えられるのだろう。 遠い日の危ういわたしがぼんやりと浮かび上がってくる。
この作品を創り上げた中村真夕監督はこの作品を仕上げる事で、自分の少女時代のもろもろときっちり出会い直しをし、そうすることで、ある意味、娘としての自分と決別したのではないだろうか。これから前へ進むためにはまずその作業が必要なこととして。 アメリカで映画の勉強をした中村真夕監督は、初めての作品は日本で、それも自分の生まれた京都を舞台にして撮りたいと3年間かけてこの作品を作った事を聞き、そう感じたことだった。
瑞穂に宿った命のこと。 「したいことは何か、分かっている!」 この瑞穂の強い調子の言葉が耳に残っている。 求めないで与えられた新しい命を前にして、瑞穂は、それを葬ることではなく、生み育てたいという内なる声を聞いたのだ。 命を生む、それを育む、それがわたしの今、したいこと― どうにもならない自分にとって、新しい命こそが自分を立たせるものになる事を直感していたに違いない。
子どもを生み育てることは生き直しをする事でもある。自分に欠けていた子ども時代、解決できないでいた宿題をもう一度やり直す事ができる壮大なプログラム。
まだ幼い瑞穂は、しかし、母になったところから着実に成長へと向かっていくだろう。今までとは違った足取りで日々を歩んでゆく事になるのだろう。 「ひとりで泳げるようになったで!」 乳母車を押しながら後ろを振り返り友人に向かって言った言葉、底力を秘めた笑顔が、映画のラストで印象強かった。
その言葉が、その笑顔が、嵐に翻弄されるたくさんの17歳たちに届くように。
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