たりたの日記
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2006年09月12日(火) 高村光太郎を読む <――に>

 わたしは若い日々、高村光太郎の「智恵子抄」を繰り返し読んでは、そこに恋愛の理想、結婚の理想を見ていた。
このように生涯を通じて愛されたい。妻と夫というこの世的な関係を超えて、お互いに対等で、お互いに影響し合って成長してゆくような関係を持ちたいと。
 しかし、結婚というものを25年間続けてきて、自分なりのパートナーシップを確立してきた今、「智恵子抄」の詩のあちらこちらに、智恵子自身の悲劇ではなく、男と女の関係に生じる悲劇のようなものが潜んでいるように思え、自分自身の感じ方の変化に気づかされた。

 智恵子にとって光太郎との結婚生活は果たして幸せだったのだろうか―そんな問いが浮かんでくる。
 光太郎と結婚する前、25歳の長沼智恵子は日本におけるフェミニスト運動の先駆けとなった雑誌「青踏」の創刊号の表紙を描いている。平塚らいてふや与謝野晶子らと共に、その活動にしばらくはかかわりながら、結婚後は、そのかかわりが途絶えている。
 平塚らいてふや与謝野晶子が生き生きと自らの女性性を社会運動や芸術の中で開花し、後輩を育て、世の中の流れを変えていくという大きな働きを担った一方、長沼智恵子は高村光太郎の愛妻、「智恵子抄」のヒロイン、しかも悲劇のヒロインとしての名前しか残さなかった。

 智恵子はなぜ狂ったのか。彼女の心の病は何に起因するものだったのか。 もともとの気質、体質が最も大きな原因だろうし、実家の破産が実際の引き金になったことは伝えられるままだろうが、偉大な芸術家の妻としての様々に屈折した想いや緊張、自己卑下など結婚生活におけるつまづきもその要因を助長することになったのではないだろうか。
 そもそも結婚は見合いでするもので、恋愛結婚そのものが先鋭的な事であったこの時代においては、光太郎は言うまでもなく、新しい男だ。しかし、当然な事ながら、そこにはまだ陰りがある。
 女性をそのままに見るというよりは、自分の理想に引き寄せて、神格化したきらいはないだろうか。 愛することと崇め奉ることは違う。本来のその女性の本質を違ったように解釈され、あるいはその解釈に押し込もうとされては窮屈でたまらない。 智恵子はどこかで光太郎の愛する智恵子を演じなければならなかったのではないだろうか。
 自分の弱さも脆さもすべてを明け渡せるのでなければ自由な男と女の関係は結べないだろう。 足すことも引くこともなしに、その人そのものを受け入れ愛するということには闘いが伴う。二人はそういったお互いを理解するための闘いを闘ったのであろうか。あまり強い光太郎は、またあまりに弱い智恵子は、その闘いに目覚めることのないまま流されていったのではないのだろうか。

こうした視点から「―に」を読んでみる。



     「―――に」       
             「道程」より

いやなんです
あなたのいってしまふのが―

 
花よりさきに実のなるやうな
種よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな理屈に合はない不自然を
どうかしないでいて下さい
型のやうな旦那さまと
まるい字をかくそのあなたと
かふ考えてさえなぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で
大風のやうにわがままな
あなたがお嫁にゆくなんて


いやなんです
あなたのいってしまふのが―


なぜそう容易く
さあ何といひませう――まあ言はば
その身を売る気になれるんでせう
あなたはその身を売るんです
一人の世界から
万人の世界へ
そして男に負けて
無意味に負けて
ああ何といふ醜悪事でせう
まるでさう
チシアンの画いた絵が
鶴巻町へ買物に出るのです
私は淋しい、かなしい
何と言ふ気はないけれど
恰度あなたの下すった
あのグロキシニアの
大きな花の腐ってゆくのを見る様な
私を棄てて腐ってゆくのを見る様な
空を旅してゆく鳥の
ゆくへをぢつとみている様な
浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
はかない、淋しい、焼けつく様な
――それでも恋とはちがひます
サンタマリア!
ちがひます、ちがひます
何がどうとはもとより知らねど
いやなんです
あなたのいってしまうふのが―
おまけにお嫁にゆくなんて
よその男のこころのままになるなんて





 この詩の中で「あなた」はその弱さをすでに決定づけられている。結婚は身を売ること、結婚するならば男に負け、一人の世界から万人の世界へと移行することになると。結婚は大きな花は腐ってゆくようなもので、あなたは結婚の前で悲しい自棄のこころでいると。

 これは男である作者の、女はこうしたものだという一方的な決めつけに他ならない。そうでない在り方、そうはならない結婚というものが見えていないし、また見ようとはしていない。という事は「いやだ」と駄々をこねる他は、女性を生かす方法を示すことができないはずだ。確かに、そうした弱さが見える。
 この事と関係があるかどうかは定かではないが、高村光太郎と長沼智恵子が結婚したのは1914年の事だが、実際に婚姻届を出したのは、それから19年後の1933年。智恵子が自殺未遂を起こした翌年、光太郎が50歳の時である。
 法的に婚姻関係を結んでいなかったという事実は、智恵子に精神的に不安定な立場を強いることになったとわたしは思うのだが、なぜこのような情況が長く続いたのだろうか。
 いえ、いえ、その家の事情というものがあるのだから、こういうところを作品の解釈に結びつけるのはルール違反というものだろう。あくまで作品の中に現れるところから考えてみなければ・・・


この詩の原詩である「N−女史に」、まず智恵子に示されたとされるこの詩にはさらにその傾向が強く現れているように思う。この詩の中には、


そして、男に負けて子を孕んで
あの醜い猿の児を生んで
乳をのませ
おしめを干して
ああ、なんという醜悪事でせう
あなたがお嫁にゆくなんて


とされている。
 本来女性が子を生み育てる行為こそ、男性から尊び敬われても良い特質だと思うが、光太郎にとってはそれは醜悪な事なのである。ここで智恵子は結婚前にすでに女性が本来持つ特質を否定され、傷つけられているのである。
 もしこの事に気がついていたなら女の本質は、それを否定する男と闘う事を避けられないだろう。しかし智恵子はその事に気づかずにいたのか、光太郎のもとへ行く。
 今のわたしの眼には彼女の内なる女性性はすでに相手の男性性に取り込まれる形でその関係をスタートし、自由であるべき智恵子の芸術性はその関係においてすでに危機に晒されることになった、それこそエンマ・ユングが、著書内なる異性―アニムスとアニマ (海鳴社 エンマ・ユング著)の中で言う「アニムスの問題」の典型だと映るのだが、わたしが智恵子の立場であったとしても、とうていそんな落とし穴には気づかなかったに違いない。

 


別の詩に 「おそれ」という詩がある。そしてこの詩は前の詩にもまして、暗示的だ。

いけない、いけない
静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない
まして石を投げ込んではいけない


から始まるこの詩は

あなたは其のさきを私に話してはいけない
あなたの今言はうとしてゐる事は世の中の最大危険の一つだ
口から外へ出さなければいい


と智恵子に何かを禁止し続ける。
そして決定的なこのフレーズ

あなたは女だ
男のやうだと言はれても矢張女だ
あの蒼黒(あをぐろ)い空に汗ばんでゐる円い月だ
世界を夢に導き、刹那を永遠に置きかへようとする月だ
それでいい、それでいい
その夢を現にかへし
永遠を刹那にふり戻してはいけない



「あなたは女であり、月だ」とする。
それは平塚らいてふの「元始女性は太陽であった」という主張とまっこうから反対する主張だ。
 ここで光太郎が智恵子に「いけない」と禁じたものが何であるのか、それは分からないが、彼女の本質にかかわるもの、もしかすると、智恵子自身が光太郎に対して「闘い」を挑んだ「何か」であったかもしれない。もしそうであれば、智恵子はその「闘い」の芽すら摘み取られ、すごすごと自分の内側に篭る他なかったのではないだろうか。なんとお互いに孤独なパートナーだろう。こうした行き場のない深い挫折が精神を蝕まないですむとは思えない。
 わたしが20代の頃、この詩に何の違和感も覚える事なく、その禁止の呼びかけすら、なにか心地よいもののように感じていた。ところが今、この詩は居心地が悪い。この不自由さ、この束縛・・・

 ここで偉大な彫刻家であり、詩人である高村光太郎を責めるつもりはない。この時代の中で、彼は精一杯、ひとりの女性をひとりの人間として、芸術家として認め、愛そうとしたフェミニストの先達であった事をむしろ讃える者だ。
 また、光太郎の作品の中には残されていないが、狂った妻と共に過ごした7年間、光太郎の苦しみと闘いの中にこそ、壮絶にして真実な愛のドラマがあったに違いない。
 けれども、この詩の中に、いみじくも滲み出ている男と女の関係が生み出す悲劇を見ることに触れておきたい。そして、それが光太郎と智恵子の問題に限らず、今の時代においても、しばしばわたし達の前に立ちはだかる「隔て」であれば、ここから学び取る事もまたあると思うのだ。
 「わたしには夢がある―」、キング牧師ではないけれど、よりよい男と女の関係、より深い人と人との関係をわたしたちが育てていける余地はまだあると信じている。


<参考>



      おそれ
             「智恵子抄」より

いけない、いけない
静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない
まして石を投げ込んではいけない
一滴の水の微顫(びせん)も
無益な千万の波動をつひやすのだ
水の静けさを貴んで
静寂の価(あたひ)を量らなければいけない

あなたは其のさきを私に話してはいけない
あなたの今言はうとしてゐる事は世の中の最大危険の一つだ
口から外へ出さなければいい
出せば則(すなは)ち雷火である
あなたは女だ
男のやうだと言はれても矢張女だ
あの蒼黒(あをぐろ)い空に汗ばんでゐる円い月だ
世界を夢に導き、刹那を永遠に置きかへようとする月だ
それでいい、それでいい
その夢を現にかへし
永遠を刹那にふり戻してはいけない
その上
この澄みきつた水の中へ
そんなあぶないものを投げ込んではいけない

私の心の静寂は血で買つた宝である
あなたには解りやうのない血を犠牲にした宝である
この静寂は私の生命(いのち)であり
この静寂は私の神である
しかも気むつかしい神である
夏の夜の食慾にさへも
尚ほ烈しい擾乱(ぜうらん)を惹き起こすのである
あなたはその一点に手を触れようとするのか

いけない、いけない
あなたは静寂の価を量らなければいけない
さもなければ
非常な覚悟をしてかからなければいけない
その一個の石の起こす波動は
あなたを襲つてあなたをその渦中に捲き込むかもしれない
百千倍の打撃をあなたに与へるかも知れない
あなたは女だ
これに堪へられるだけの力を作らなければいけない
それが出来ようか
あなたは其のさきを私に話してはいけない
いけない、いけない

御覧なさい
煤烟(ばいえん)と油じみの停車場も
今は此の月とすこし暑くるしい靄(もや)との中に
何か偉大な美を包んでゐる宝蔵のやうに見えるではないか
あの青と赤のシグナルの明りは
無言と送目との間に絶大な役目を果たし
はるかに月夜の情調に唄をあはせてゐる
私は今何かに囲まれてゐる
或る雰囲気に
或る不思議な調節を司(つかさど)る無形な力に
そして最も貴重な平衡を得てゐる
私の魂は永遠をおもひ
私の肉眼は万物に無限の価値を見る
しづかに、しづかに
私は今或る力に絶えず触れながら
言葉を忘れてゐる

いけない、いけない
静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない
まして石を投げ込んではいけない




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