たりたの日記
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2006年06月18日(日) |
ダンスの練習、見学の今日 |
まずい!
重く疼くような痛みを膝に感じて目が覚める。 昨日は山の後、確かに左膝が痛かった。
膝を痛めてしまったのだろうか― けれど、膝の痛みなど、踊っている時もしょっちゅうあるし、階段を降りるのも片足ケンケンで降りるほど膝が痛くても、ラテンを踊るうちにすっかり治ったという事が一度ならずあった。 昨日も山で疲れた足はダンスで治そうと考えていたくらいだったのだから。
何とかベッドから起き上がろうとするが、うまく起き上がれない。 まずいことになったね。 わたしの異変に気づいたmGが言う。 その言葉の意味することはわたしにも分かった。同じ事を考えていたのだ。 7月17日のエムズのステージまで1ヶ月。これから踊り込みという時期 なのに・・・
そういえば、3年前のミュージカルの時も公演の一ヶ月前に突然声が出なくなった。ソロで3曲、デュエッで2曲歌うことになっていた。チケットも大方売れていたし、穴を開ける事は絶対できない。他の人の歌唱指導も任されていたから真っ青になった。 医者の言う事を守り、2週間はがまんして声を出さずにひたすらイメージトレーニングをした事だった。 その時の気分を思い出したのだ。 大丈夫、あの時も何とか本番はやれた。今度も舞台までには必ず治す!
病院は休みなので、以前、股関節を痛めた時に治してもらった中国整体へmGが連れて行ってくれる。
「靱帯が炎症を起こしていますね。大丈夫治りますよ」 「どのくらいで治りますか」 「さぁ、今ははっきり言えませんが、とにかく今は動かさないことです。 動かすと治りませんよ」
一時間、吸引やマッサージをしてもらい、ずいぶん楽になったように感じた。 骨が折れたわけでも、靱帯がはがれたというのでもない。治るのにそれほど時間はかからないだろう。
午後4時半からダンスの練習にmGと出かける。 すでにキッズやキッズママ達が練習をしていた。その後、メンズの練習が入り、6時からみんなで集合し、先生代行のミチミチが細かいところをチェックしてくれることになっていた。
わたしはスタジオの隅っこに座り、手だけ動かしながらみんなの動きに合わせていた。でも全体の動きをじっくり見るという機会ができて良かった。自分の踊れていなかったところも発見できたし、シュミレーションもできた。 そして仲間の踊りを見ながらしきりに考えたことがあった。
わたしがダンスをやっているという話がでた時、ある人から「ダンスしたり山に登ったり、たりたさんはレジャーしまくりね」と言われた。 「レジャー」という語彙がわたしの頭にはなかったので、その人の言わんとしていることが俄かに掴めず、思わず返答に詰まった。 側にいた別の人が「ライフ・ワークでしょう」と助け舟を出してくれたので「そう、そう」とその場をやり過ごしたが、その「レジャー」という言葉の響きが妙に心に引っかかっていた。
ところで、今日、公民館の体育館の中で汗びっしょりになって、踊っている仲間の真剣な顔を見ながら、これ、レジャーなんて言葉は当てはまらないよなぁ〜と思った。 子ども達にしても家でのんびりテレビを見たり友達と遊んだりする日曜日の時間をダンスの練習のためにここに集まってるんだ。苦しんでやっているのではないにしても、そこに大きくなろうと前に進んでゆくエネルギーが溢れている。
大人たちにしても毎日過酷なスケジュールに追われるサラリーマンやOL.子育てや仕事に追われる母親達が時間を工面して集まってくる。自分ができない部分を何度も練習し、お互いに教えあい、いい舞台を作り上げようと励んでいる。実際、踊っている仲間達の顔は輝いていて、見ていると胸が熱くなってくる。ステージで踊りを見た人達が、そこからエネルギーをもらったと言ってくれるが、その事の意味が分かる気がした。
ブロードウェイのミュージカルを見る度にわたしは震えるように泣いたし、自分の内側から変わるような衝撃を覚えた。それは彼らの歌や踊りの巧みさといった技巧的な事ではなく、そこに凝縮された人々の放つエネルギーにだった。生きるという事のもうひとつの側面を見せられ、揺り動かされるものがあった。
舞台で何かを表現するということ、人の前で自分を開くということ、パフォーマーであるということ、そこにはプロであろうがアマチュアであろうが、ギャラが入ろうが入るまいが、言葉にはし難い「何か」があるのだとわたしは思う。
そういう意味では山もわたしにとってはレジャーという言葉からは遠い。 確かに山に遊ぶのだが、他に置き換えの利く気晴らしとは違う。発芽してしまった種。どうしてもそこへと誘われる強い迫り。 見えない人には見えない世界であるかもしれないが。
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