たりたの日記
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2006年04月27日(木) 「バナナフィッシュに最適の日」のシーモアを尋ねて



午後の仕事までのわずかな時間、庭のテーブルで本を読む。
ここのところ気にかかってならないシーモアを尋ねるための読書。
短い、細切れの時間に、手に入れた数冊の本を読み進めている。

シーモアとは今度のゼミのテキストになっている サリンジャーの「バナナフィッシュに最適の日」の中に出てくる登場人物。
この作品を読み終えてすぐに湧き起こったいくつもの疑問。
なぜ、シーモアはこの短い小説の最後で自分のこめかみを打ち抜いたのか。
そのショッキングな結末に唖然となった。
このシーモアという人間を知りたい。サリンジャーがこの作品で何を訴えたかったのかを知りたい。


今日読み終えた本は「大工よ、屋根の梁を高く上げよ・シーモア―序章―」
「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」は、「バナナフィッシュに最適の日」の前の話。シーモアがミュリエルとの結婚式をドタキャンするすったもんだが、シーモアの弟、バディの眼を通して語られる。そこに見え隠れするシーモアの姿があり、シーモアという人物が立体的になる。作品としてもおもしろかった。

「シーモア―序章―」は、40歳になったシーモアのバディが自殺した兄シーモアのことを、その心の内側を探ってゆくという話。
そこには死があるが、重苦しいものではなく、むしろ透徹した世界。虚無的なものを予想して読み始めたのだったが、むしろ求道的、宗教的なものを感じた。
実際、道教、禅、聖書、キリスト、キルケゴール、に関係した深い言葉がいくつも出てくる。
詩とは何か。詩的に生きるということは。バディが自分に課している命題を読む者もまた追っていく。


サイトでサリンジャーのことを調べていたら興味深いエッセイがあった。
1979年3月の「ユリイカ」に掲載されている神学者、野呂芳男氏のエッセイ「サリンジャーの宗教的世界」
シーモアを尋ねる旅が思わぬところに導かれてゆく。






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