たりたの日記
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ストロング・ウェイ
教育棟204、確かそんな名前のついてる場所。 いつもはただしんとした空間にひとりでしゃべる教官と退屈な顔の大学生達の横顔しか見えない教室。しかしその日は違っていた。ガラス窓には暗幕が張られ、なにやら破壊的ともいえる音がそこから鳴り響いていた。バルコニーに出したテーブルには昼間から酔いつぶれているらしい学生がたむろしていて、無機質なコンクリートの建物と不釣合いな空気がそこに漂っている。大学の開学祭の2日目だった。
わたしは204の脇を通ってさらに上階の304の教室に入った。音楽科の教授の研究発表があるというので音楽科の学生は動員がかかっていた。少しばかり退屈なほとんど講義の続きのような発表を聞きながら、下から響いてくるあまりの音のうるささと、同じ音楽とはいいながらこの教室で語られている音楽との違いにあきれていた。 「音量を下げるわけにはいかないのかしら」 と言いながらわたしは発作的に立ち上がった。
顔をこわばらせて、抗議モードに心を固め、そのいかがわしげなクラブもどきの204教室のドアを開けたのだった。ところがその瞬間、まるで待ってましたというように、あのうるさかった音が急に別の音に変った。 「何なの、この音!」 その何かひとつところに向かって収縮していくような音と音のうねりに、わたしは早くも首根っこを捕まれてしまい、ふらふらとカウンターに座ったのだった。カウンターの内側には、見知った教育学部のNがいてわたしに気が付くと意外だという表情を作り、 「ストロング.ウエイへようこそ」 と言う。どうやらここはNやその仲間達がやっているジャズやロックを目玉とするクラブらしかった。 「音がうるさいから注意しに来たんだけど...でも、この曲、いいわね。何ていうの」 「僕は知リマセン。今連れてきますから、ここの音楽担当者」 いつものことだが、Nはことさらに丁寧な言葉でしゃべる。それが慇懃無礼にならないのは、そのゆったりと伸ばした独特のイントネーションのせいなのだが、これはNの自然な言葉使いというよりは彼の創ったスタイルのように見えた。どこでも、誰にでも自分流を押し通すというあたりで、わたしが少々負けていると感じる相手だった。
Nから連れてこられ、わたしの目の前に立った男の子は、腕までめくりあげたカーキ色のシャツにオーバーオールという風変わりな格好をしていた。 顔も腕も日に焼け、眼光はきらりと鋭く、たった今、無銭旅行から帰還したとでも言うようだった。ぼわぼわした髪が顔を取り囲み背中のところまで伸びている。一見、むさ苦しげなのに、人間臭さに乏しいのが不思議な印象だった。若い男の子にはたいてい見え隠れする感情の揺れのようなものが見えなかったからかもしれない。
こういう人間とはどんな話をすればいいんだろうと、相手の様子を伺いながら今流れている音楽について尋ねた。レコードのタイトルと演奏者の名前が分かればそれでよかったのだが、オーバーオールは待ってましたとばかりにその曲の解説を始めた。どうやらそれがここでの彼の仕事らしい。なんだか知らない名前や言葉がやたらでてきた。このクラブのためにあちこちから集めてきた 二千枚のLPレコードはすべて解説ができるというのを聞いて一瞬ひるむ。わたしについてもいろいろさぐりを入れてくるので、県民オーケストラでバイオリンを弾いているというと、彼は一瞬のけぞった。
解説もどうやら終わったようで、コップの中身もなくなったから退散すべしと椅子を立つと、オーバーオールはLPレコードを2枚押し付けてきた。 「これ貸すよ」 「貸すなんて言われても、どうやって返せばいいの。学部違うし、会うことないでしょう」 「聞いたらNに渡しといてくれればいいよ。」 と押し切られた。音量を下げてもらうという目的も果たさないまま、 わたしは名前も知らない男の子のLPレコードを2枚抱えて、キャンパスの坂道をとぼとぼと歩き、一人暮らしのアパートに戻っていったのだった。 始まりの予感などはなかった。しかしどうやらそこが始まりだった。 それから一週間も経たないある日の夕方。アパートの戸をトントンと敲く音がする。ドアを開けると目の前にあの時のオーバーオールが立っていた。
*
オーバーオールは名前をアキラと言った。アキラはそれから一週間に一度くらいの割りで、わたしのアパートにやって来た。その度にレコードやカセットテープに限らず、本や紙に書きつけた自分の詩や誰かの詩、また自分の手や足を描写した巧みなデッサン画や水道の蛇口や誰かの片足を写した変った写真などを持参してきた。4ヶ月の間は友達として過ごしたが、友達というよりは、ディベートの相手と言った方がいいかもしれない。アキラの仲間のNたちは、わたしのところにアキラが来ている時は、いつまでたっても電気が消えないことを笑った。夜を徹して議論しているのを知っていたからだ。 そんな具合だったから、ある日を境に我々が恋人同士になったと公示しても、周囲は信じなかった。それもそうだろう。アキラは変った様子もなく、 わたしはうっとりするような目などしてはいなかっただろうから。 はっきり言って、わたしはその時、覚醒していた。恋の甘さに酔っている場合ではなかったのである。アキラはそれまで一人旅など一度もしたことがなかったわたしを、自分の冒険に連れ出す作戦を立てた。それまで一人で出かけていた山登りや無銭旅行にわたしを引っ張り出したのである。そしてわたしは初めて、親に真っ赤な嘘をついた。男の子と二人で旅に出るなどとまともに言えば、とんでもないことになることは目に見えていたから。
星明りの他は何もない草原のテントの中、突然襲ってきた雷雨に生きた心地はしなかった。白馬岳に登った時にはお金が無くて、松本駅の構内に寝袋を並べて寝た。アキラがそのことを自覚していたとは思わないが、彼は冒険も含めて、様々な場面にわたしを連れ出すことで、わたしが育っていく過程で身に付けてしまったさまざまな呪縛を剥ぎ取るという役割を果たしたのだった。 わたしたちは、大学を卒業して2年後に結婚したが、夫婦なったらなったで隠れている問題は吹き出すものである。新たなバトルに明け暮れしているうちに父親と母親になってしまった。目の前の赤ん坊をとにかく育てないわけにはいかない。未熟なまま、無理やり父と母の服に自分達を押し込め、どっぷり現実という荒波の中に浸かっての共同作業が始まった。 そもそも一旦結婚してしまうと、周囲はたちまちそのユニットを自分達の社会に適合させようとする。男は仕事の側にしっかりと縛られ、女は近所の主婦仲間や育児仲間にがんじがらめになる。子どもの育て方に到っては周囲の無言の圧力がかかり、そうして回りとあまり違わないような似たり寄ったりのファミリーができあがってゆく。里帰り出産に始まり、宮参り、七五三、幼稚園と、自分達のテイストと違うものに知らないうちに引き込まれてゆくのだ。
結婚生活を始めて、そこのからくりに気が付いたわたしたちは、社会の暗黙の圧力に屈しないことを決めた。自分たちの考えやテイストに会わないことはしないと。出産にはたとえ、その病院がそういう方針を掲げていなくても、夫が立ち会う。里帰りはせず、赤ん坊は初めから2人で育てる。子育ての責任はきちんと半分づつ受け持つといった具合に。
わたしが生まれたばかりの赤ん坊を抱えて退院してから産後の母体が落ち着くまでの一週間、アキラは新生児の沐浴やおむつ交換、食事の支度に始まるあらゆる家事を一手に引き受けた。今のように男性も育児休暇が取れる時代ではなかったが5日間の有給を確保できたことは幸いだった。
育児にまつわるアキラの話はいくらでもあるが、ひとつだけ愉快なエピソードを書いておこう。長男が生まれてまだ2ヶ月と経っていなかった時、 わたしは腕にしこりができたので医者に行くと大きな病院で調べた方がいいと言われた。病院に新生児を連れてゆくわけにはいかないが、預けられる親も親戚も近くにはいない。今のように一時預かりができる保育所もなかったから、こういう場合はアキラが休みを取って赤ん坊を看るしかなかった。 彼はどうせ休みを取っているのだから用事をいっしょに済ませようとしたのか、それとも、この日を逃すわけにはいかなかったのか、彼はわたしが病院に行っている間、赤ん坊を連れて、電車で2駅のところにある警察署に運転免許証の書き換えに行ったのだ。カンガルーよろしく布製のキャリアーに新生児を入れて現れたまだ大学生のように見える若者に警察官はぎくりとしたらしかった。さらに、手続きの途中で赤ん坊がウンチをするや、若者はその警察署の机の上でオムツを替え始めた。そこにいた警察官たちが物目ずらしさに集まってきたのは言うまでもない。 「いったいこんな生まれたばかりの赤ん坊、どこからさらってきたんか」 「かわいそうに、おまえ、早々と女房に逃げられたな」 などとはやし立てたらしい。新米の父親は赤ん坊のオムツを換えるという差し迫った命題を前に他のことは目にも耳にも入らなかったのだろう。それにしても警察署のデスクの上でオムツを換えた若い父親のことは語り草になったに違いない。
先ほどわたしはわたしが育つ過程で身につけてしまった呪いを共に歩む男性の存在によって解かれていったことを書いたが、それはまた彼の側にも言えるのである。音楽や書物や旅、あるいは電気の回路や図面がもたらす世界とはおよそ無関係な、生生しい生の営みの中に我が身を挺することで、彼もまた呪縛を解かれていったのである。恋愛や結婚はお互いを縛りあい、囚われあうことにも成り得るが、お互いを解き放つ可能性も内に秘めている。 困難なことから目を背けないで、しっかりと向き合う時、不自由は自由へ変えられる。
あの時304教室のクラブに「ストロング.ウエイ」という名前を付けたのはアキラだった。それは彼が目指していた生き方。結婚生活や子育ての中、家族を支えての22年間は、アキラのイメージしていたStrong wayではなかったかもしれないが、共に生きてきた連れ合いのわたしからすれば、それはそれでりっぱにStrong wayだったと思っている。新しい命のために自らをある意味犠牲にするのは決して女だけに要求されていることではない。男が自覚的にそれを受けて立つ時、それはStrong Wayに成り得るのではないだろうか。
そうやって我々を嵐のような日常にひきずりこんだ長男も、この夏21歳になった。我々が出会った歳である。夏休みにはガールフレンドとタイへの旅に出かけた。次男は今年大学生になり家を離れて寮生活を始めた。アキラもわたしもこれまで着ていた父と母の服をほぼ脱ぎにかかっている。決して自慢できるよう子育てではなかったが、与えられた2つの命をこだわって育んできたことだけは胸を張れる。そうして今、なんという解放感を味わっていることだろうか。
しかし、この終わりの時はそのまま新しいステージの始まり。アキラが会社員であったり夫であったり父親であったりするその真ん中に、誰も踏み込んでゆくことのできないひとつの道を見失わずにきたことはわたしも知っている。彼は元のところに立ち返ってやり残したことをやるつもりでいるのかもしれない。昔のようにまた冒険に連れ出す気でいるのならお供もしよう。 わたしはあの当時よりははるかに身軽になっているのだし、体力だって今の方が勝っているもの。ひとりで出かけるというのなら、それでもいい。わたしもまたひとりで楽しく行こう。
彼のまた続くストロング.ウエイが、健やかならんことを!
たりたくみ
初出 2003 年10月「心太処」
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