たりたの日記
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今夜は、夜の10時近くになってだったが、ずいぶん久し振りに家族4人が揃う。
子供達が目の前に居ないと、母親という意識がかなり希薄になるのだが、子供が(もう二人とも大人だけど)「ごはんだよ〜」とか「お風呂に入りなさ〜い」とか言わなければならないと、好むと好まざるとにかかわらず、母親モードに切り替わる。少しもうるさくしたいわけではないが、同居人が増えると交通整理役が必要になるからしかたない。
午後は次男のMと>「SAYURI]を観る。よく家族で映画を観に行ったものだったが、大きくなった息子と二人で映画を観るというのは初めて。例によってひどくぼろぼろのジャケットとか着ているので、もう少し小奇麗なかっこしてくれればいいのにと小うるさくもなり、「オカアサン、世間体気にしすぎ」なんて一番言われたくないことを言われたりする。
さて映画の話。主演のさゆり役が中国人のチャン・ツィイーというのも何とも不思議だが、彼女はみごとに日本人の芸者を演じていた。そして「初恋の来た道」時のひたむきさ、芯の強さ、心の美しさはそのままSAYURIの中に生きていた。女性の美しさというより人間の持つ精神の美しさのようなものを感じた。そして、さゆり役がなぜチャン・ツィイーなのかも分かるような気がした。この役には翳りのなさ、裏表のないきっぱりとした精神が求められるからなんだろう。こういう女性は日本には少ないかもしれない。むしろさゆりを妬み、さまざまな嫌がらせをする姐芸者はその陰湿な感じやその女性の哀しさ、激しさと脆さがよく出ていた。日本の女のひとつの典型を描いていると感じた。
とりわけ素晴らしかったのはさゆりが大勢の客の前で一人で舞を舞う場面。その舞をわたしは外国人の眼で観ていた。日本という国の持つ特殊な美の世界。外国人の眼ということであれば、この映画そのものを、外から日本を観るという意味で、外国人として観ていたように思う。
最後の場面で泣いてしまったが、この結末はいかにもハリウッド映画らしい。ここに心打たれ、ああよかったと安堵しつつも「このストーリーの展開、なんだか日本人っぽくないよね。アメリカ的だね」とMと話す。 舞台も役者も日本人だがこれはいい意味でも悪い意味でも、紛れもないハリウッド映画だ。こういう視点から日本を見る時、隠れていて見えにくいものも見えてくる。
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