たりたの日記
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「伊集の花」の舞台が終わった次の日の朝。 それは同時に愛する従姉が戻らぬ人となった翌朝だった。 昨日と同様、今日の空はすっきりと晴れ渡っていて日の光りはきらきらと美しい。 この空気を身体いっぱいに吸い込みながら、この季節を選んで彼女は天へ帰っていったのだと思う。 ――耳の奥にフォークルセダーズの歌う「感謝」が繰り返し鳴り響いている。
♪長い橋を渡る時は、あの人は帰らぬ・・・・・ 消える御霊、見送りながら心からの感謝を・・・・
両親の故郷佐賀県に住む従姉の具合が良くなく、ホスピスに入ったと母から電話があったのが2日前。昨日の朝、わたしは舞台が終わったら途中花屋へ立ち寄り見舞いの花を送ることができるよう病院の住所を書いた紙をバッグへ入れていた。 そして、この従姉にこそ「伊集の花(いじゅのはな)」を見てもらいたいと思った。そこにある歌も踊りも言葉も、彼女は深く受け止めるだろうと思ったからだ。詩を書き続けたその従姉の詩にわたしは魂が生まれやがて帰ってゆくところをいつも感じていたから。 せめて、わたしは今元気に生きているということを精一杯感謝して、彼女の事を想いつつ、精一杯心を込めて踊ろうと思った。
舞台を終え帰りの車の中で母からこの従姉の訃報を受けた。 こんなに早く見送ることになるとは・・・そのうち手紙も書こうと思っていたのに・・・。 従姉が息を引き取ったのは、昨日の正午頃だという。その時わたしは「伊集の花」のリハーサルのステージの上だった。本番の時には彼女はもうこの世を旅立った後ということになる。 肉体から離れて自由になった従姉の魂は、あの舞台を客席から見ていたのではないか、あるいは舞台の上でわたしのすぐ傍らに寄添ってくれていたのではないかと、そんなことを思った。
あの舞台の上には多くの人がすでに渡っていった長い橋、越えた深い川、そこを渡っていった人々がいた。戦火の中で倒れた人々、伊集の亡くなった母親・・・。 すでに橋を渡っていった魂と、やがて深い川を越えるわたしたちと、これから生まれてこようとしている命が触れ合う、哀しみとも喜びともつかないような不思議な優しい空気に満ちていた。わずか30分ほどのステージだったが、そこには永遠を思わせるものがあった。 舞台の袖で順番を待ちながら、子どもたちといっしょにしゃがみこんで「感謝」の踊りを見ていた時、6歳の小さなMちゃんが、「わたし、涙が出て来くるの」と、耳もとでささやいた。はっとして見ると彼女の目の端っこに涙の粒が溢れそうになって溜まっていた。わたしは人差し指でその涙をぬぐった。そしてちいさな魂が受け止めているものをわたしもまた受け止めた。
一夜明けて、昨日の舞台のすべてのシーン、仲間の表情、Mちゃんの涙、従姉の死のことがひとつの想いとなって「感謝」の歌とともに繰り返し、打ち寄せてくる。
♪深い川を越えたならば、わたくしも戻らぬ。 だから今が大事過ぎて、幕が降りるまでは・・・・
智慧子さん 深い川を越えるその時まで、幕が降りるその時まで大切に生きます。 あなたがそうしたように、わたしもまた。
感謝 ( 歌・フォークルセダーズ)
長い橋をわたる時は あの人は帰らぬ 流れ星の降り注ぐ 白い夜の上で 消える御霊見送りながら 心からの感謝を
深い川を越えたならば わたくしも戻らぬ だから今が大事過ぎて 幕が降りるまでは 怨みつらみ語り尽くして 心からの感謝を
怖がらないで、顔を上げて 見守っているから 日はまた昇る 明日のことは振り返らないで 次第次第うすれる意識 さらば愛しき者よ
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