たりたの日記
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2005年09月17日(土) 苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を

今、金曜日の深夜、あさっての日曜日に教会学校で話す話の準備をしています。
テキストは、ローマの信徒への手紙5章の1節〜5節まで。


『このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。
わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。

希望はわたしたちを欺くことがありません。
わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。』


という箇所です。
子どもの頃、といっても10代の頃、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」というところがとても好きでした。というより、身に沁みて、そして励まされていました。
どういう理由からか、わたしは中学生の頃、とても生き辛さを感じていました。人間関係もあったでしょうし、生徒会だの、部活だので、子どものくせに、果たすべき仕事や責任があり、手に負えないほど忙しいと感じていました。何とかこなしていたのでしょうが、夜布団に入ってから、なんて毎日苦しいんだろうとつぶやいていた事を思い出します。

そういえば、子育ての時もそんな日々がありました。これはわたしだけでなく、すべての母親達に言えることでしょうが、子どもを産み育てることには必ず苦難が伴います。子どもの病気、事故、学業や友達関係でのつまづき、それは自分のことよりつらく、ほんとうに心を痛めます。けれども、そういう日々の積み重ねの中で母親達は我慢強くなっていくのだと思います。わたしなどはとても忍耐強いとは言えませんが、若いお母さん達の姿の中に、わたしが忘れてしまっている忍耐強さを見てはっとすることがあります。
そして、その忍耐が母親をして逞しく、様々な事に対処できる力を付けていくのでしょう。そういう練達は書物からでは学べない、知識とは別の力です。
母親に成り立ての頃、すべての母親が自分よりもはるかに熟練していることを感じ、尊敬の念にかられたことを思い出します。
そして、密かに希望も持ったのです。やがてこの小さな我が子も一人立ちする日が来る。どの母親も、みなそうして子どもを一人前にしているのだからきっとわたしにもできるに違いないと。

さて、子ども達への話はなんとしましょう。
きっと小さな子は小さな子なりの苦労があるに違いありません。きっとぐっと我慢することもあるでしょう。あっ、そうだ、「花咲き山」という絵本があったことを思い出しました。サヨは小さな弟たちの子守をする長女ですが、サヨがひとつ我慢をする度に花咲き山にひとつ花が咲くというストーリーでした。
苦難は花を咲かせるために神様がくださる贈り物。苦しいことの先に光りがある。
この絵本はそんなことを教えてくれていたのだと、今になって分かるような気がします。

そうだ、この本を読もう。
まだ、我が家の青年たちの本棚にあるかなぁ。それとも誰かにあげてしまったかもしれない。

読者のみなさま、わたしのお話の準備におつきあい下さりありがとうございました。

追加

この日記を書いた後、「花さき山」の本を見てみると、いろいろ記憶違いのことがありました。まず書名は「花さき山」斉藤隆介作・滝平二郎絵、岩崎書店
主人公の名前はあや。
あやは一面の花が咲く花咲山に迷いこむのですが、そこで出会ったやまんばから、ここの花は村の人間がやさしいことをひとつすると一つ咲くのだと聞きます。
そしてあやの目の前には、あやが昨日咲かせたという花を教えられます。
それは、あやが自分が欲しいのを我慢して妹に新しい着物を譲った時に咲いた花・・・とこういうストーリーでした。


たりたくみ |MAILHomePage

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