たりたの日記
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2005年09月04日(日) 新しい歌を主に向かって歌え

今日は大きなことが2つありました。
ひとつは礼拝の中で証詞(信徒がする信仰の話)をしたこと。
もう一つは、10月24日の芝居ダンス「伊集の花」のステージリハーサル。

証詞は数えてみれば16年ぶりの事になります。
わたしの所属してきた教会では礼拝では特別な事がない限り牧師が説教をし、信徒が話すことはほとんどありません。そういう意味では貴重な機会をいただいたことになります。
そして話を準備する中で、今まで途中まで分かるけれどその後が分からないというような事が少しづつ見えてくるような、また、点と点とが繋がるようなそんな内的体験をすることができました。

そして今日話しながら、その最中に、まだその先があることも見え、ここから先はまだ分かっていないということが分かったりしました。
後で牧師と話したのですが、そういうものだそうです。
何だか話が見えなくてごめんなさい。

興味がある方はどうぞ。今日わたしが話したことの原稿です。
長いです。。


      <新しい歌を主に向かって歌え>

教会学校では8月の第2週から今日まで4回に渡って詩編が題材に選ばれていました。教会学校のお話をKさんと交代で担当しているので、子ども達に話すことの準備のためにここ一月ほど、取上げられている詩編を読んだりその言葉について考えたりする機会が多かったのです。

改めて詩編を読んでみると、詩の言葉は生き生きとしていて、とても3000年ほど前に書かれた言葉とは思えないほど、新しく感じられました。昔から現代に至るまで、古今東西、無数の詩人たちは新しいスタイルを、誰も書くことのなかった新しい言葉を見出そうと努力してきました。そして世の中には優れた詩、出合えて良かったと思える詩が数多くありますが、詩編にはそれらの詩にはない新しさや力強さがあると感じました。

今日、わたしが選んだ詩編は、詩編第96編です。
この詩編のはじめの部分を読みます。

   < 詩編96編 >
新しい歌を主に向かって歌え。
全地よ、主に向かって歌え。
主に向かって歌い、御名をたたえよ。
日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。
国々に主の栄光を語り伝えよ。
諸国の民にその驚くべき御業を。


この詩編の始めの一行は大変有名で、様々な讃美歌や巻頭言に用いられています。さきほども、「新しい歌を歌え」というブラジルの讃美歌を讃美しました。わずか一行の「新しい歌を主に向かって歌え」という言葉なのですが、このフレーズを口にすると時、新しい力のようなものを呼び起こされるのを感じます。何度くり返しても、古びずに、ますます新しくなるという言葉があるのだなあと思い、讃美の力、聖書の言葉の持つ力に今さらながらに気づかされるのです。そしてそのような事がなぜ起こるのか、「新しい歌を主に向かって歌え」というこの詩編の最初の言葉をわたしなりに掘り下げて考えてみたいと思いました。

聖書の中でこの「新しい歌」という言葉がどのくらい出てくるか調べてみると、詩編の中に六回、ヨハネによる黙示録の中に一回出てきます。また、この「歌」というのはどれも、神に向かって歌われる歌、つまり讃美のことです。それでは「新しい歌」の「新しい」というのはいったい何を意味するのでしょうか。

まず考えられる事は、文字通り新しい讃美歌、つまり、今まで誰彼が歌ってきた歌ではなく、その時の気持ちを歌いこんだ新しい讃美歌ということが言えるかと思います。先週の礼拝の中で、タミが自作の讃美歌を2曲披露してくれましたが、これはまさに「新しい歌」です。また先週の礼拝の前の讃美の集いでは、韓国の讃美歌「ウリエイウッソン」という歌を韓国語と日本語で歌いましたが、わたし達の知らない原語で讃美歌を歌うというのも、新しい体験で、これもまた「新しい歌」と言えると思います。この教会でも、ビデオを見ましたがフランスのテゼー共同体やスコットランドのアイオナ共同体は、次々と新しい讃美の歌、祈りの歌を世界に送り出しています。そういう働きはまさに「新しい歌を主に向かって歌え」ということの実践だと思います。

けれども、これは詩ですから、それぞれの言葉は象徴としてまた比喩としても用いられていると考えれば、この新しいというのは文字通りの「新しい」という意味の他にもっと別の隠された意味があると思いました。そしてそれはひとつの姿勢なり心の状態を示唆しているのではないかと思ったのです。
どのような姿勢かといいますと、過去でも未来でもない、たった今の、この瞬間の新しいわたしを持って神に向かい合う在り方です。過去において洗礼を受けて新しくなったわたしとしてではなく、これから信仰告白をして新しくされるかもしれないわたしというのではなく、のっぴきならない今というその先端のところで新しく神に対面する、対面し続けるという在り方です。

このことで思い出すのはルカによる福音書23章の記事です。イエスが十字架にかけられたとき、両脇に同じように十字架にかけられた犯罪人がいましたが、一人の犯罪人が「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、わたしを思いだしてください」と言った時、イエスが「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。犯罪人は死刑されるほどの犯罪を過去において犯したことでしょう。神を恐れぬ極悪非道の道を歩いてきたに違いありません。ところが十字架につけられたその時、死が目の前に迫ったその時に、彼はイエスが神の子だという事に眼が開かれたのです。その犯罪人はこの瞬間にはじめて神の存在に、そして永遠というものに触れたのでしょう。犯罪者は「わたしを思いだしてください」という表現でイエスに信仰を告白します。そしてイエスは、彼の信仰をしっかりと受け止め、「はっきり言っておくが」と力を込めて、天国を約束しておられるのです。問われるのは「過去」ではなく「今」です。わたしはこの記事の中に救いの本質を見るような気がしました。そして、今、お前はイエスに向かってわたしを覚えてくださいと言っているのかと問われているように思うのです。

キルケゴールは、「人間は時間的なものと、永遠的なものの総合である」と言っています。人間がいま生きているということを実感するのは、時間的なものと、永遠的なものがひとつになる時だというのです。そして、この時間的なものと永遠的なものが総合される時を「瞬間」、と呼び、この「瞬間」とは、時間の流れに永遠が突入する時だと説明しています。

この事で、忘れられない一つの体験があります。
わたしが子どもだった時の事です。小学校2年生の時、教会学校に初めて行くようになった頃です。いつも礼拝の後に小さなカードをもらっていました。
その時にもらったカードをポケットに入れ、帰り道、寄り道して公園で弟や友達と遊んだのですが、その時ふと、ポケットのカードを取り出してみる気持ちになりました。
そのカードには男の子と女の子がいて、落ち葉の舞う中で踊っているような絵が描いてありました。そしてその脇には
「花は枯れ草はしぼむ。しかし神の言葉はとこしえに枯れることはない」
と記されていました。これは旧約聖書、イザヤ書の40章8節の言葉なのですが、この言葉を読んだ瞬間、衝撃がありました。時間が止まってしまったかのような、人間がどういうもので神がどういうものなのか、その関係のようなものが強い衝撃と共に分かったのです。これは後で大人になってから理解したことで、その時にはただ大きなものに打たれたようなそんな感じでした。そして、人間は死ぬのであればなぜ生きているのだろうとその頃芽生えていた不安がさっとひっくりかえされるような感覚を覚えたのです。花や草のように人間が死んだとしても永遠に変ることのない存在がある。そのことがとてもうれしいのでした。
これはキルケゴールの言う、「時間の流れに永遠が突入する時」だったのだと、新たに知らされます。

コヘレト人への手紙3章11節に
「神はすべてを時宜にかなうように造り、また永遠を思う心を人に与えられる」
とありますが、わたしたちは、時間的な流れの中で生きながら、確かに、時間が止まってしまうかのように感じられる瞬間、永遠の中に投げ込まれるような瞬間を体験します。そのような時には今ここに確かに生きているということを実感するのですが、同時に、この瞬間がある意味で自分にとっての終わりだという事も感じます。なぜなら、限りある時間の中で生きるわたしたちにとって、今より先の時間の保証はどこにもないからです。永遠なものが突入することで、つまり神が入り込んでくることで、自分にとっての今がまた終わりである事にはっきりと目覚ざめさせられるのだと思うのです。そんな心の状態を、また「新しい」という言葉の中にくみ取ることができるように思いました。

このことを考えている時、興味深い資料に出会いました。
「新しい歌を主に向かって歌え」ので出しの言葉は、ラテン語で「カンターテ・ドミノ」と言い、「カンターテ・ドミノ・カンティクム・ノヴム」と続きます。この「ノヴム」というのが新しいという意味です。そして、この「ノヴム」の最上級は、「デ・ノヴィシマ」となり、「最も新しいこと」と言う意味になりますが、この「デ・ノヴィシマ」という言葉は中世のキリスト教神学において、終末の教えを意味する言葉になるそうです。
最も新しいことは、同時に終末のこと。最も新しいこととしての終わりのことというわけです。
この資料を見つけた時、今まで漠然と感じてきたこと、まだ暗闇の中に形も見出せないでいたものに、光りに照らし出されて、いくぶんはっきりと見えてくるような気持ちになりました。


「新しい歌を主に向かって歌え」
詩編が語る新しさとは、時間と共にやがては古びてしまう新しさではなく、永遠の神と出会う瞬間、そして同時に、今という新しい先端が同時に意味するところの終わり。そうするなら、そこにはもう神しかおらず、おのずと神の方向へと押し出され、神に向かって歌うのです。
「神ははじめでありまた終わりである」故、わたしたちが神に向かって歌う歌は新しい歌であり同時に終わりの歌でもあるのです。


わたしは最近山登りを始めたのですが、登り始めるとじきに苦しくなってきて、ほんとうにあの頂上まで登りきることができるだろうかと思うのですが、一歩一歩足を動かし、歩数をかせぎようやく頂上に立つと、何とも言えない晴れ晴れとした気持ちになります。登ったことの達成感や山頂から見る山の景色の素晴らしさもあるのですが、それよりも、その先端のところでさっき申し上げた「瞬間」が訪れるのです。永遠が入り込んでくるのです。登りつめたこの先端にはもう登るべき道はないのですが、その先にはより広い世界が広がっています。そしてここから先は人間の努力や時間の及ばない永遠なる神の領域です。
いっしょに山に登る仲間の多くはクリスチャンではありませんが、どの人も、山の上に立つ時には同じように永遠に向かって心が開いているのではないかという気がします。そして、誰もがそれとは気がつかずに、永遠なる神と接する瞬間を繰り返し求めているのではいかと思うのです。

今までは山登りは人生のようなもので、登り始めが人生のスタート地点、頂上がゴールとすれば、「今」というのは登山入り口と頂上の間のどこかの地点という感覚があったのですが、実はそうではなく、「今」というこの時こそが山の頂上ではないかと思えてきました。
別のイメージで言えば、下からのびてくる時間を表わす棒のその先端にわたしたちは立たせられているというイメージです。「今」は限りなく新しく同時に終わりです。そういう場所に立っているのが、限りある命を持つ我々被造物ではないかと。そしてその先端のところで、永遠なる神に限りなく接近しているのではないかと。

「今」という、神と出会いまた同時に終わりを意味する山頂にいながら、日常の中ではそれがそうと認識できない。あるいは忘れてしまう。
十字架の上でイエスに対面した犯罪者のように今という時に目覚めるよりは、イエスが受難を前にゲッセマネの園で一人激しく祈っている最中、イエスが捕らえられる直前という緊迫した最中に、眠り込んでしまった弟子達のように、眠りの中に落ちているのです。
けれども、神は聖書を通して、また日常の中で起こるさまざまな機会を通して、わたしたちを永遠が入り込んでくる瞬間に立たせます。
自然との出会いの中で、人との交流の中で、さまざまな創造的な活動の中で、
一人の時間の中で・・・


今もこうして週の初めに神の家に集まり礼拝を守っていますが、礼拝は神に向かって歌う事から始まります。眠った心は揺り起こされ、はっとしてまた神に立ち返り、先端であり最後でもある今の中で新しく主に向かいます。

新しくはじまる週も、新しい歌を主に向かって歌い、この瞬間に命をいただいて生かされているということに目覚め、神に聞き、答えていく者でありたいと願います


たりたくみ |MAILHomePage

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