たりたの日記
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2005年08月25日(木) |
「伊集の花」の音のこと |
8月14日の日記で、演劇とダンスのコラボレーション「伊集(いじゅ)の花」のことに触れた。これは10月23日に発表することになっている、ダンスチームM's Party のエントリーだ。 あの時は台本をもらっただけだったが、火曜日にこの30分のステージの音をもらった。この音の構成、選曲も台本を執筆したH氏による。
M’Sの掲示板でH氏は「伊集の花の音は、膨大な候補からピックアップした楽曲や効果音など100余りの音が重なって響きあってできています。・・・今思い返すと何かに突き動かされるかのように生まれた30分余りの音・・・」とコメントしている。また、台詞や状況に怖いほど呼応し、音が息をしていると。
本人が何か怖いような気もすると言っているが、実際、その音を聞いた時、それは音以上のものとして、ストレートにわたしの内側に入って来た。入ってきたというよりは隠されていたものが皮膚の表層に滲み出してきたような、それこそ恐ろしいような生々しさを覚えた。 この生々しさというのは音そのものの生々しさではない。記憶の生々しさだ。その歌が、それを聞いていた時の心の状態をいっしょに焼き付けていたことを知らされる。 子供時代、生きている事の意味が不確かで、不安や空虚感にさいなまされていた(このことすら、その時には気づいていないのだが)時、、そんな気持に共鳴する歌を、心は鋭くキャッチして自らの身体に刷り込んだのだろう。
「ダッタン人の踊り」、坂本九の歌う「ともだち」、「老人と子供のポルカ」、「ヨイトマケの歌」・・・ 不思議なのは、その歌を今の今まで意識に上らせることが全くなかったということ。 なつかしがって、繰り返し甦らせていた歌ではない。むしろ、意識的に封印していた歌だ。これらの歌や曲が同時に焼き付けた感情をわたしは思いだしたくなかったのだろう。
しかし今のわたしは、甦ってきた歌をなつかしく受け止めることができる。 今はそういう虚ろさを通り越し、確かな足取りで地を踏みしめていることに気づかされるからだ。 時代に育てられてきた。時代の中を潜ってきたのだとしみじみ思う。
「伊集(いじゅ)の花」の主人公、伊集は、封印されていた母親の過去に向かって旅する。 そうして、この話の最後ではその旅がきっかけになって出会った女性との間に新しい命が芽生えたことが告げられる。 過去が未来へと繋がる。死が命へと接木される。
「終末からの出発」、これはわたしの本を読んでくださったFさんの感想の中にあった印象深い言葉だが、このストーリーと音の中に、終末が包含する新しい命のことを思った。
さて、これはどの様な舞台になることだろう。 今、舞台監督と振りつけをする奈央せんせいの内側ではインスピレーションの波が渦巻いているように見受けられる。 過去と今と未来を見通すようなそんな世界が出現するような気がする。 わたしはステージの上で新しい体験をすることになるのだろう。
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お近くのみなさん、ぜひ10月23日、熊谷ホールへお越しください。 詳しい時間やチケットのことは分かり次第、掲示板でお知らせします。
なおM's Partyの単独発表会(9月19日 午後2時より 宮原公民館) あゆみの箱秋のステージ(11月5日午後12時30分より さいたま市文化センター)にいらっしゃりたい方、チケット(無料)お申し出下さい。 あまり枚数がないのでお早めにご連絡くださいね。
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