たりたの日記
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2005年08月16日(火) |
「脱力」とひとりごと言い蝉を聴く |
これから汽車に乗って空港まで行かなくてはならない。 わたしのいる駅はどうやら子供の頃のふるさとの駅なのだが、わたしはすでに大人で、海外へ旅行しようとしている。 もうじき汽車が来る。その時になって、わたしは訪ねる友人に持ってゆくお土産を買い忘れている事に気づく。どうしよう、駅前の和菓子屋さんへ走って買ってこようとバッグを開けるとお財布はおろか飛行機のチケットもない。そんなはずはない!とわたしは青くなってバッグをごそごそと探し始める。どこを見てもない。絶望的。その半ばで目が覚める。まだ意識はバッグを探しているパニックの状態のまま。 「あぁ、夢だった。」 身体の緊張が解けるのはそれからしばらくしてからである。
いったいわたしはこの手の夢をよく見る。探すものが出てこない。時間に遅れる。約束に間に合わない。 日頃表層には出てこなくても、わたしはかなり恐れや不安、心配といったことに縛られているということなのだろう。
これはわたしが生まれ持って抱えている遺伝子によるものなのか、それとも子供の頃の環境から作られた性格なのか、わたしはぼおっと抜けている一方、がちがちに緊張し、力が入るというやっかいな性質を抱えているようだ。
さてこの解決作なのだが、大きくわけて2つある。 一つは不安の原因になっている事を取り除くべく、行動する。わたしが今朝どうしてこういう夢を見たかそれはもう明らかだ。夕べ寝る前に書いた日記、わたしの眼の前にある課題が手付かずのまま置かれているというのが原因だ。それをひとつづつ片付けていく事で緊張の度合いも緩くなっていくはず。今日は一番やりたくない、台所周辺の大掃除をやっているところだ。今日のうちにはなんとか終わるだろう。 今週のうちには、9月ステージのダンス4曲をなんとか悪夢を見ないところまで、覚えて踊れるようにすることだ。それでかなり心は軽くなるはず。2学期のクラスの準備だって、まだ十分時間はあるではないか。
もうひとつはわたしが不安に思っている、その気持ちを縛っている紐を緩めること。つまり「脱力」。 前回「脱力の人」の序文から引用したが、なすがまま、あるがままの自分を受け入れること。Let it be のおまじないを効かせる事。あせっても、不安にかられても、わたしが出来ることしか出来ないという事を悟ること。 しかしこれが難しい。「脱力の人」を熟読し、Let it be を歌ってみても、 なかなか我が身にこもり、心を硬直させる無用の力は抜けないものである。 しかし、この力を抜くという行為こそが今のわたしの最大の課題という気がする。ここはなんとか乗越えなければ良い晩年は望めない。(ちょっと飛躍しすぎですかね。)
あぁ、だから究極の脱力の達人たちをわたしは羨望する。 脱力ということを突き詰めれば、キリスト教で言う、己に死ぬこと、自分を愛するごとく隣人を愛することにまで行き着くように思える。そのあたりはまだ十分に考えがまとまってはいないけれど・・・ 今はまだ片付けの半ばなので落ち着いて思索ができない。「脱力の人」を読んで学んだ脱力の達人たちについての感想は日を改めて書くことにしよう。
さてさて、この午後も我が身に脱力を言い聞かせつつ、あせることなく、鍋やら食器やらひしめく不要物と格闘するとするか。
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夕方。大きなゴミ袋4つ分に鍋やプラスティックの容器などの不燃物。ようやくお仕事終了。ふうっ。 冷蔵庫の横においてあったライスストッカー付きのレンジ台をまるごとどかしたら、台所のスペースが広くなって信じられないほど動きが楽になった。 いらない物を捨てると、心がずいぶん軽くなる。この家のあちこちにあるいらない物をすっかり無くしてしまうと人生変わるような気がする。 今年こそやろうかな。出て行った子ども達の部屋もすっかり空っぽにして、生活するのに必要な厳選したものだけを置くというそんな暮らし方がしたい。
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