たりたの日記
DiaryINDEX|past|will
2005年08月14日(日) |
小山清「よきサマリア人」を読む |
小山清全集を日々読み進めている。 読んでいると何か穏やかな気持ちになる。そして、しんと静かで、同時にふつふつと漲ってくるものを感じる。 これはなんだろう。 愛だと思う。隣人への愛。まわりにいる人達へ向けられた慈しみ。 年譜にはキリスト教の洗礼を受け、後に教会から離れるとあるが、小山清の作品のどこにも、キリストがまず何よりも大切な事として示す隣人への愛が満ちている。
そしてまた、イエスの山上の垂訓の中で挙げられている幸いな人々どれも当てはまるように感じられる。 心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人・・・
昨日は昭和29年に筑摩書房から出た2冊目の本「小さな町」を読んでいたが、その中の「よきサマリア人」を読んで、深く心に触れるものがあった。
北海道で炭鉱夫をしたことのある著者の実体験に基づいた作品ではないかと思うのだが、炭鉱の中で作者の携帯した安全燈が消えてしまい暗闇の中に取り残された時、そこを通りかかった仲間達は係わり合いになりたくないとばかりに作者の困窮を見て見ぬ振りをしたのに、「山水や」という渾名を持つひとりの無知な男が自分の電燈と作者の電燈を交換してくれたというエピソードを綴っている。
無灯のまま斜抗を登る山水やを見送った後、こう語る。 「独りになっても私は、いっぱな感動にゆすぶられていた。私はいまこそ悟ったのである。宝船の意味するところを。私という泥船が沈むべくして沈まないのは、だだつ児がのほほんと生きていけるのは、みんな、縁の下の力持をしてくれる人達がいるためだといふことを。さうしてこの自覚は私に新しい勇気をくれた。」
よきサマリア人のたとえ。新約聖書ルカによる福音書10章25節から37節までの記述だ。イエスは「わたしの隣人とはだれですか」という問いに対して、このたとえを話すのだ。そして「行って,同じようにしなさい」と言う。
心のどこかにいつも「隣人を自分自身のように愛しているか」という問いかけがある。そしてそうしてはいない自分を繰り返し自覚する。
昨日はラテンの後、10月のステージ、芝居とダンスのコラボの台本「伊集の花」をもらう。ダンス仲間のH氏による力作だ。戦争の中での沖縄の痛みが基調にある人間愛あふれる作品だが、この台本を読みながら、わたしは沖縄の痛みをどれほど自分の事として受け止めてきただろうかと思った。広島と長崎の原爆にしても、その悲惨さをどこかで感じまい、思い出すまいとしているのではないか。
今日は日曜礼拝の後、同居人と共に世田谷に伯母夫婦を訪ねた。86歳になる伯母は去年の秋に会った時よりも、さらに年老いて見えた。2時間ほどお茶を飲みながら4人でおしゃべりをし、伯母の家を後にする。年老いて様々なことが不自由になり、もうあまり長くはないと死を身近に感じているこの伯母夫婦のことをわたしはどれほど気にかけているだろうか。
帰りに本を物色すべく神保町へ寄る。9月からの英語の歌のクラスの楽譜を見つける必要があったからだ。使えそうなものが見つかり、カウンターへ行ったところ、「ほっとけない 世界の貧しさ」というキャッチが目に止まる。***のロゴが入った白いブレスレットが並んでる。ホワイトバンドプロジェクトの事を初めて知った。豊かな国に住む人間は貧しい国に住む人間のことを忘れて生きている。考えてもしかたない、自分とは無関係なこと。考えたらつらくなるから考えないようにする。そういう我々の標準的な生き方の中でホワイトバンドのキャンペーンはとてもとてもささやかなものだ。
わずか300円でその白いバンドを買うのだ。その売り上げは貧しい子供達のところへ行くにしても、私達の飽食は来る日も来る日も終わることがない。単なる気休めとも偽善とも受け止められる。けれども、少なくとも、ホワイトバンドは3秒に一人の割合で飢えて死んでゆく子供達の存在を思い起こしてくれる。とすれば、白いプラスティックの腕輪はわずか300円のドネイション以上の意味を持つ。隣人のことを痛みに思う、後ろめたさを覚えるという最低のことを促してくれるから。
<参考> ―よきサマリア人―
(新約聖書ルカによる福音書10章25節から37節まで)
見よ,ある律法の専門家が立ち上がり,彼を試そうとして言った,「先生,わたしは何をすれば永遠の命を受け継げるのでしょうか」。
イエスは彼に言った,「律法には何と書かれているか。あなたはそれをどう読んでいるのか」。
彼は答えた,「あなたは,心を尽くし,魂を尽くし,力を尽くし,思いを尽くして,あなたの神なる主を愛さなければならない。そして,隣人を自分自身のように愛さなければならない」。
イエスは彼に言った,「あなたは正しく答えた。それを行ないなさい。そうすれば生きるだろう」
しかし彼は,自分を正当化したいと思って,イエスに答えた,「わたしの隣人とはだれですか」。
イエスは答えた,「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中,強盗たちの手中に落ちた。彼らは彼の衣をはぎ,殴りつけ,半殺しにして去って行った。 たまたまある祭司がその道を下って来た。彼を見ると,反対側を通って行ってしまった。同じように一人のレビ人も,その場所に来て,彼を見ると,反対側を通って行ってしまった。 ところが,旅行していたあるサマリア人が,彼のところにやって来た。彼を見ると,哀れみに動かされ,彼に近づき,その傷に油とぶどう酒を注いで包帯をしてやった。彼を自分の家畜に乗せて,宿屋に連れて行き,世話をした。 次の日,出発するとき,二デナリを取り出してそこの主人に渡して,言った,『この人の世話をして欲しい。何でもこれ以外の出費があれば,わたしが戻って来たときに返金するから』。 さて,あなたは,この三人のうちのだれが,強盗たちの手中に落ちた人の隣人になったと思うか」。
彼は言った,「その人にあわれみを示した者です」。 するとイエスは彼に言った,「行って,同じようにしなさい」。
|