たりたの日記
DiaryINDEX|past|will
2005年04月25日(月) |
尾崎翠 「花束」を読む |
夕方より文学ゼミへ行く。 今回のテキストは尾崎翠(おざきみどり)の「花束」というもの。全く知らないこの作家の作品を、何の先入観もなく読んだ。
好きな読み心地だった。少女漫画の持つ独特な世界に通じる何かにも、重く低い雲が覆っているようなメランコリックな気分にも、不思議となごむ感覚があった。
わたしがこのゼミに参加するようになって、最初のテキストが冨岡多恵子の「遠い空」で、その後は男性作家の作品が続いていた。それらの作品には、ある意味対決を強いられるようなところがあって、自分にない世界、今まで知ろうとせず、はなから閉ざしてしまっていた世界に覚悟を決めて足を踏み入れる感覚があった。そして踏み入れるからにはきちんと対峙しなくてはならないという迫りがあった。
そういう意味からは、今回のテキストを読みながら、ぎゅっと絞りこんだ気持ちの中に、風がゆき渡り、ふわりとふくらむような心地よさを覚えた。 その言葉のやってくる方向がとてもよく感知できる。その心象の描写も、風景の描写も、まるでぴったりとフイルムが付いたように密着した近さ。 これは、男性の作家には覚えることのない感覚だが、しかしすべての女性作家にこのような感覚を持つわけでもない。これまで読んだどんな女性作家にもない、独特さ、そう、奇妙な独特さがあるのだ。それは、今まで味わったことのない不思議な果実のような、そして一度食べたら、その匂いも味も決して忘れることのできないような独特さがあると感じた。
まず感じたのは彼女の使う言葉、表現に対して感じる「新しさ」だった。明治生まれの作家とは思えない。現代の人気女流作家たちの新しさも霞んでしまう気がした。ではどうして新しいと感じるのだろうか。 それは、彼女が時代にもまた女性性にも影響を受けない、彼女独自の感性の故なのではないだろうか。
様々な作家の中に、人間の内なる男性(アニマ)と内なる女性(アニムス)、の葛藤のようなものを感じてきたが、尾崎翠のアニムスは少しも脅かされることなく、自由だという印象を持った。アニムスがアニマに脅かされたり、支配されたりする必要のないほど、それだけで充足していると。 たった一作だけ、しかも代表作ではなく初期のこの短編を読んだだけでは何も言えないが、出会いの予感を感じたことは確かだ。さっそく作品集を注文した。
この作家について、ゼミで学んだ事、またその後にわたしが調べたことを記しておこう。
<参考> 尾崎翠について
1898(明治29)年、鳥取県の温泉町に生まれる。宮沢賢治と同年代。1914(大正3)年、鳥取高等女学校を卒業し代用教員となる。この時代は投稿がさかんな時期で、翠は「文章世界」に投稿して認められる。同時期の投稿者として、翠のライバル的存在に、吉屋信子がいる。
1917(大正6)年、21才の時、「新潮」に作品が掲載されたのを機に、小学校を退職し、上京し、文学の道を志す。三兄史郎のもとに下宿していたが、1919(大正8)年、翠23才の時、日本女子大学国文科への入学し、女子大寄宿舎に入舎する。
1920(大正9)年、女子大当局から干渉を受け、中退に追い込まれ、やむなく帰郷鳥取で創作を続ける。 1930(昭和5)年、代表作「第七官界彷徨」の執筆にとりかかり、1933(昭和8)年に刊行された。これは一部の人に熱狂的に迎えられる。 持病の頭痛のためのミグレニンの常用を常用していたが、それが副作用を引き起こし神経科の病院に入院する。 以後作品の創作はなく戦中・戦後にかけて、東京の友人達には翠の消息は不明となる。
1960年代後半になって、一部の人達に思い出されるが、本人はその後も筆を折ったまま、1971(昭和40)年、7月8日、尾崎翠は高血圧と老衰による全身不随の病床で75年の生涯を閉じる。
従来「悲劇の天才的マイナー作家」として、一部の男性評論家や研究者に祭り上げられてきたが、、90年代になって主に女性の作家や研究者によって、読み直しが行なわれ、女性監督・浜野佐知が、この「幻の作家」の謎に包まれた人生と、代表作『第七官界彷徨』の世界を映画化し、98年11月、東京国際映画祭・国際女性映画週間に出品された。
尾崎翠の作品は、目下ジェンダーやセクシュアリティ、少女論、モダニズム研究など、新たな文脈で読み直されつつあり、筑摩書房から2巻の『定本尾崎翠全集』が刊行され、また、文芸春秋からは群ようこ氏による評伝『尾崎翠』が出るなどという動きがある。また2000年より毎年、鳥取で尾崎翠国際フォーラムが開かれている。
|