たりたの日記
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2005年04月06日(水) 出遭いの連鎖

ここ数日間、読む事に没頭している。
読むと書けない、というより書く時間に読むから時間がなくなる。
しかし、何か書いておかなければ、この時期に何を読んだかということも定かではなくなる。

このところは、忘れる、覚えてはおれない、思い出せない、という事をすっかり学習したので、記憶に頼るということはももうあきらめてしまった。
いくら体力をつけても、贅肉を落としても、こういうところに衰えを見出す。
しかし、だからこそ、書こうとするし、またあまり時間が残っていないと思うから貪欲に読む。


冨岡幸一郎著「聖書をひらく」を読み、続いて同著者による「内村鑑三」を読み進めている。内村鑑三の著作はちょうど洗礼を受ける前、大学3年の時に手にしているのだが、わたしはそれを読み進める事ができなかった。時がまだ来ていなかったのだろう。その時にも、きちんと出遭いは用意していただいたのに、わたしの熱意も、また理解力も十分ではなかったのだ。神はあきらめることなく、人を通し、機会を通して、わたしが受け取るべきものを受け取るよう、道を用意してくださる。

また、冨岡氏が解説を書いているカトリック作家の小説を2冊読む。大原富枝著「アブラハムの幕舎」と森内俊雄著「骨の火」。「アブラハムの幕舎」では、母との間にある主人公の葛藤や、イエスへの思い、信仰への希求、また強靭な孤独の内に自分自身寄って立つところを見出そうとする意思など、わたし自身の葛藤や願い、また祈りがそこに映し出されているようで不思議な感動を覚えた。「骨の火」では、罪のあるところにまた神が存在するという深遠なテーマに若い頃に読んだドストエフスキーを思い起した。生々しい人間、人間の犯す罪、その罪に対する苦悶。圧倒されるものがあった。

正津文学ゼミの前回の課題の芥川龍之介を読んでいた時には、思いがけず、芥川のキリスト観に触れたし、今回の課題の川端康成の「片腕」でも作品の中に2箇所出て来る聖書の引用が興味深い。そこに作者のイエス観が見えるのだ。

わたしから探し求めたというわけではないのに、目の前に次々と出遭うべきものが置かれ、それが次へと連鎖していく。





たりたくみ |MAILHomePage

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