たりたの日記
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2004年09月11日(土) |
声のライブラリー(自作朗読の会)へ |
朗読を聞くのは好きだが、作家自身の朗読となればさらに興味が湧く。しかも今回はわたしが好きというよりはむしろ崇拝している高橋たか子氏が最新作の「きれいな人」を朗読するというので、まだ6月の内から参加の申し込みをしていたのだった。主催は駒場公園の中にある「日本近代文学館」。今回で38回目の声のライブラリーということだった。
この朗読会のことを知らせてくれたのは、高橋たか子研究会のサイトの常連になっているネット友のS。朗読会は午後2時からだが、朝9時には羽田に着くという彼女と渋谷で待ち合わせる。そこから会場に最寄の駅、駒場東大前までは井の頭線で2駅。駅のすぐ目の前に東大教養部の門。静かな住宅地の中の道を通って会場までは徒歩10分。わたしたちは、その途中にぽつりとあったpiyokoという、いい感じの店構えの店に入る。テーブルが3つほどの小さな店内には不釣合いなほど、たくさんの種類のシフォンケーキがケースに入っていたが、どうやらシフォンケーキが有名な店らしい。そこには豆とひき肉のトマト煮と五穀米という、Sとわたしにぴったりのメニューがあり、そこで再会を祝して、早い昼食をゆっくり取る。オレンジシフォンケーキも、リラックスローズという名前のハーブティーも忘れられない味だった。
ずいぶん、ゆっくりと過ごし、道に迷いながらようやく会場に辿りついても、開場まで30分あったので、その文学館の展示物を観る。日本の近代文学を担った人達の写真や年賦、初刊本や直筆の原稿などが興味深かった。 しかし、Sもわたしも、実のところ、これから起こる出来事の方に心はすでに奪われている。開場するや、一番乗りでホールに入り、Sから促されて一番前の席を確保する。
朗読会と、それに続く座談会は3人の作家によるもので、高橋たか子さんの他は やはりカトリック作家の森内俊雄さんと詩人の正津勉さんだった。 正津勉さんのことは知っていた。いつだったか「詩の雑誌」で、谷川俊太郎さんと正津勉さんの対談を読んで興味を覚え彼のホームページへ行き、文学を学ぶ誰でも参加可能なゼミを月に1,2度開いていると知り、ユニークな詩人だなと思っていた。
高橋さんは予想していた以上に、そぎ落とされていた。不必要なものは一枚一枚脱いで、もうどんなこともふっきったとでもいうような素の人になっていた。それは彼女が小説の中で描き出そうとした「きれいな人」そのものという印象だった。
実際、化粧もせず、髪もシンプルそのもの。そして、意外なことにジーンズジャケットにスカートという装いだったが、それにしたって近くの八百屋さんの店先や、家のまわりを散歩をしたりしている高橋氏に会ったような飾りのなさだ。おそらくその会場のいた人間の中で、最も装わない格好だったかもしれない。 高橋氏が文章の中で繰り返し書いておられることが、もうひとつストンと落ちた気がした。 装いに限らない。この世の中のもの、自分自身に対してすら、すっかり執着がないといった、その人の今の地点での境地、その人の方向、そんなものがその存在を通してすっきりと見えている。 このような大作家にこのような表現が許されるかどうか分らないけれど、その何も余分なものを貼り付けていない晩年の作家は、なんとも愛らしく、思わず笑みがこぼれてしまう。女性的というより、むしろ男性的な感じすらしたのではあったが…
京都の言葉のアクセントで、淡々と読まれているのは、その小説「きれいな人」の中に出てくる、100歳を迎えるシモーヌ夫人の詩の部分だ。
すべては思い出だ と、或る日に気づいたわたし 或る日といってもずっと昔のこと 以来、すべては思い出 過去のすべてが思い出だという あたりまえのことではない 今、その時それ自体、思い出なのだ 現在を生きているのに現在を思い出す
ここに生きているわたしを わたしが思い出している まるで、わたしが生きていないかのよう 別人がわたしを思い出しているかのよう
・・・・・・・・・・・・
彼女らしい表現やそこから立ち上ってくるものはそのままだが、わたしが書物を読みながら聞いていた作者の声や語り口調よりもはるかに色がなく、 ニュアンスもなく、さっぱりと透明な、淡々とした言葉たちだった。だからこそ、真に内面的な朗読なのだろう。それほどに彼女の内面には虚飾がない。
文字だけで、その人の書いたものだけで知るその人と、実際の血の通う肉体を持つその人との間にある差異はこれまでに何度も体験してはきたが、この日の出会いには、実際の人物に会うことで、なるほどと深く納得できるものがあった。 この出会いは本当に貴重だった。高橋さんは、人の前で朗読するのはおろか、今まで講演もした事はないというから、これはめったにない稀有な機会だったのだ。
正津さんの朗読はとてもチャーミングだった。熟年にしかない、若やぎとか、しなやかさとか色っぽさとか、そういう豊かなものが伝わってくる。 そして山の話しをする時、また山の詩を読む詩人は、高みを見上げるしんと静かでスピリチュアルな冷気をまとっておられた。 高橋さんの枯れた感じとは対照的だったが、今の年齢を生きている正津さん の満ちているものが伝わってきて心地よかった。
さて、座談会の後はサイン会。 Sとわたしはまたしても真っ先に、高橋さんのサインのテーブルに並ぶ。 せっかくあこがれの作家を目の前にするのだから、目と目くらいはしっかり合わせたいと思うのだが、何しろたくさんの人間、しかもおそらくみなが高橋さんのファン。そういう人間と顔を合わせるのは高橋さんは得意ではないはずだ。うつむき加減に黙々とサインをしていかれる彼女にわたしは前の日に書いたファンレターをおそるおそる差し出した。 「はい、はい」と淡々と受け入れてくださる。 目は合わせないままに。
正津さんは著書「詩人の愛」にサインをして下さる時に「たりたくみさん、前にどこかでお名前見ましたよ。前にお会いしましたね」と親しく声をかけてくださる。「いいえ、お目にかかるのは初めてです」と言いながら、またしても起こるデジャビュ。 こうして人と人がさっと横切る時、そこに留まる何か。 わたしはこの先、この詩人のことをもっと知ろうとするかもしれない。
わくわく、どきどきしながら歩いて来た住宅地の静かな道を、安堵感の混じる高揚した気分でSと共に歩いて行った。 「今日は幸せだったね」 と、言いかわしつつ、お互い同じ想いでいることを心の内に嬉しく感じながら…
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