たりたの日記
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2004年09月08日(水) |
辻仁成 「99才まで生きたあかんぼう」を読む |
ここ、3週間ばかり、辻仁成にハマっていることは前にも書いた。 数えてみると今日で9冊目を読み終わったことになる。 今日、読んだ本は「99才まで生きたあかんぼう」 ちょうど、帰宅のための電車に乗っていて、電車が降りるべき駅に到着した時に読み終えた。 終わりにしたがって本格的に涙が流れてきていたので、電車から出た外が暗闇だったのはありがたかった。 決して泣くような本じゃないのに、泣けた。
見開きのページに1歳から99歳まで、一人の男がこの世に誕生してから死ぬまでのことが、書かれている。1年がきちんと本の2ページ分だ。 これは一人称でも三人称でもなく、なんと二人称で書かれている。はじめはこのお前がという語りかけが何か落ち着かなかった。「お前」と語る、その語り手が見えてこなかったからだ。
しかし、途中で「もしかすると」と思った。やはり、この本の語り手は神だった。作者は一言も神という言葉を使ってはいないのだが、この本の終わりでそのことがはっきりと知らされる。 命を与え、片時も休まず見守っている神。
「そしてその日の夜、わたしはお前を抱きしめるために、とうとう地上へ下りた」
そして本の最後で、神は言う
「よく生きた。99才のあかんぼうよ、お前はほんとうによく生きた」と
この3週間ばかり、たまたま出会ったこの作者の中に見え隠れしている「なにか」の正体を見極めたいと先を急ぐようにして手に入るものから次次と読んできたが、読み進むにしたがってその「眼差し」に気がついた。その存在をほのめかしすらしていないのに、その「眼差し」が感じられると思った。
昨日読んだ「グラスウールの城」では、はっきりと神という言葉が出てきて、ここらあたりでわたしは共感を覚えてきたのかなと何か暗示のようなものを感じたのだったが、今日、この作家の作品を読み続けてきたことの意味が、ようやく分かる気がした。
この感じ、高橋たか子の本をともかく集中して読んだ時と経緯が似ている。 始めに初期の作品に出会い、そこにある書かれていない「なにか」にひっぱられるようにして次々に読んでいった。そしてあるところへ来て、彼女が40歳を過ぎて神と出会い、そこからまた新しく書き始めた事を知った。しかし、まだ信仰を持っていなかった時期の彼女の作品の中に、痛々しいほどの希求があって、まずはそこに惹きつけられたのだった。激しい求道の歩みとでも言えばいいだろうか。自分はいったい何者なのか、自分の向こう側には何があるのかという問いかけが書く動機になっていると思った。
辻仁成が、一人のアーティストとして、作家として、これからどのような歩みをしていくのか、とても興味深い。
読んだ本を書いておくとしよう。
「情熱と冷静のあいだ」 「ピアニシモ」 「ワイルドフラワー」 「目下の恋人」 「海峡の光」 「ガラスの天井」 「母なる凪と父なる時化」 「グラスウールの城」 「99才まで生きたあかんぼう」
明日から読むものは 「クラウディ」 「愛と永遠の青い空」 そして最新作、作者の自伝とも言えるらしい「刀」
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