たりたの日記
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2004年08月15日(日) 主の鍛錬を軽んじてはいけない

今日の日曜礼拝の聖書、第2日課はヘブライの信徒への手紙12:1-13だった。
その昔、日々が鍛錬だと思えるようにしんどい事が日々あった時、この箇所を繰り返し読んだので、このパウロの手紙の言葉はわたしへ書かれた手紙のように響いていた。

牧師は説教の中で、よりやさんに与えられている鍛錬は、また共に担うわたし達の鍛錬だと語る。

この鍛錬という概念がない時、それは不幸や不運となり、人々はお払いなどをしてその不運を取り除こうとする。
しかし、それは取りも直さず神ご自身が与えられたものだと知る時、それはまったく違ったものとなる。
十字架そのものがその事を指し示している。



  <ヘブライの信徒への手紙 12章1-13>


1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、

2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。

3 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

4 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。

5 また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。

6 なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」

7 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。

8 もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。

9 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。

10 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。

11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

12 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。

13 また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。



たりたくみ |MAILHomePage

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