たりたの日記
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2004年08月06日(金) 「死んだ女の子」という歌


「死んだ女の子」という歌をご存知だろうか。
わたしは8月6日が来る度にこの歌を思い出す。
広島の原爆で死んだ女の子のことを歌った歌のこと。

背筋がぞっとするような体験は、わたしが記憶する限り、その歌を聞いた時が初めてだった。わたしは6歳か7歳だったはずだ。なぜなら歌の中に浮かび上がってきた女の子が同年齢の女の子だったから。

その頃、家にはポータブルのレコードプレイヤーがあって、ドーナツ判のレコードや、ぺらぺらのプラスティックでできているソノシートのレコード集のコレクションがいくつかあった。ある日見かけないソノシート集があって、わたしはそのソノシートアルバムから一枚取り出し、聞き始めた。今思えば、それはロシア民謡などを集めた若い人のための歌曲集だった。その曲がいったい何曲目に入っていたかは覚えていないが、それまで楽しく聞いていた歌が、いきなり恐ろしい歌に変わってしまった。家には誰もいなかった。

手と目が焼けてしまった女の子が、とびらを叩いているというのだ。
原爆の事は知っていた。実際にあった事。という事は原爆で死んだ女の子が、今もここにいて扉を叩いていてもおかしくないと思った。その子がお菓子も食べられない事、悲しがっている事、そして体中が焼け爛れているという事が絶え難く怖かった。その少女の存在というよりは、もしわたしがそうなったらどうしようという恐怖だった。それ以来、わたしはそのソノシート集のジャケットが目にはいるだけで、叫び出してしまうほどヒステリックにその歌を怖がった。

その歌を聞く事で、戦争が人間にもたらすぞっとするような体験を他人事としてではなく、自分自身にも起こり得る事として生々しく体験したのだった。それは小さい子どもにとってはトラウマにさえなり兼ねない怖い体験だったが、その怖さ故に、わたしは戦争を忌み嫌う子どもとして育った。
その歌に加えて、わたしの育った大分県は8月6日はいっせいに「平和授業」が行われ、夏休みのさ中、その日は学校へ行った。広島に原爆が投下された朝8時15分には黙祷を捧げるためのサイレンが町中に響くので、校庭や昇降口にいる生徒や教師はその場で立ち止まり黙想した。そういう教育ももちろん影響しただろう。

大人になって、もう二度と聞きたくないと思ったその歌を探した。あれほど怖かった歌をもう一度自分に引き寄せようとしたのは、その頃わたしは小学校3年生の担任をしていて、8月6日の平和授業で、なんとしてもあの歌を子ども達に伝えたいと思ったからだ。
あの恐ろしい体験を9歳の子どもにさせる事に迷いがないわけではなかったが、それが恐ろしい体験であればあるほど、子ども達は身を持って戦争の恐ろしさを知ると思ったからだ。平和授業の前に、その歌の収録されているカセットテープを手に入れる事ができた。
初めての平和授業の日、わたしは子ども達といっしょにその歌を聞き、歌詞を読み、歌い、話し合い、感じた事を作文に書いた。
あの子ども達はもう32歳、彼らは「死んだ女の子」の歌を覚えているだろうか。



死んだ女の子
【 作曲者名 】木下航二
【 作詞者名 】ナームズ・ヒクメット
【 訳詞者名 】飯塚 広

扉をたたくのはあたし あなたの胸に響くでしょう
小さな声が聞こえるでしょう
あたしの姿は見えないの

十年前の夏の朝 私は広島で死んだ
そのまま六つの女の子
いつまでたっても六つなの

あたしの髪に火がついて 目と手が焼けてしまったの
あたしは冷たい灰になり
風で遠くへ飛び散った

あたしは何にもいらないの 誰にも抱いてもらえないの
紙切れのように燃えた子は
おいしいお菓子も食べられない

扉をたたくのはあたし みんなが笑って暮らせるよう
おいしいお菓子を食べられるよう
署名をどうぞして下さい


たりたくみ |MAILHomePage

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