たりたの日記
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2004年07月22日(木) 「ウエハースの椅子」を読んでいます

夕べ、眠れなかった割には、何事もなく一日が終わろうとしている。
今日は江国香織の「ウエハースの椅子」を読んだ。
朝の風呂と夜の風呂の中と、そして行きと帰りの電車の中、それから、たぶん、今からベッドの中で。

本の中の女性、恋人がいる、38歳の画家は、けれども、「絶望」している。
わたしは、「絶望」とは無縁な、健やかな暮らしをしているに、なぜか、彼女の「絶望」がよく分かる。

今日は、ここまでで寝なくてはなりません。

          
           *


朝、起きたのでつづき。
ドラッグストアで見つけた薬が良く効いて、咳も出ずにゆうべは良く眠れた。
いつものように、知らない間に夜が通り過ぎ、朝がやってきているというというのは、とてもしあわせなことだ。

あれからベッドで読み終えた「ウエハースの椅子」の世界は、けっこう濃厚で、一夜過ぎた後も、わたしの日常に微妙に侵入してくる。
わたしは今朝はコーヒーではなくてハーブティーを飲んでいるのだから。
これが江国さんの筆の力なのだなあと感心しながら・・・
庭にもミントはあるけれど、ティバッグのペパーミントティーにお湯を注いで。

そう、あの本の中で、主人公はたくさん、たくさん、ハーブティーを飲む。朝に夕に、何かをする度に、恋人との性交と同じくらい繰り返し、ハーブティーを飲む場面が出てくる。

主人公の「絶望」が分かると昨日書いた。その「絶望」は、絶望などしていない人間の中にも、心の底の部分を探せば、きっとどこかに、忘れられた石っころのように転がっているような種類の「絶望」。

遠い昔、元気に棒っきれをふりわしていた男の子たちだって、ドッジボールで必ずボールを手にして狙いを定める女の子たちだって、わたしのように、狙いを定められ、ひたすら逃げ惑う女の子だって、どこかでポケットの小石のような「絶望」を握りしめていたにちがいない。

主人公の中では子どもの頃の果てしなく続く時間とそれへの「絶望」が、恋人と共にいる時あるいは、恋人と共にいない時の「絶望」とオーバーラップする。

自分が100パーセント自分のものではなく、囚われていることを知っていても、恋人の「愛」に真綿のように締め付けられ、囚われ続けていくしかない、その女(ひと)は哀しい。


わたしはきっと、そこには身を置かない。


「玉の緒よ絶えなば絶えねながらえば忍ぶる事のよはりもぞする」

と、脈絡もなく、ひとつの古い歌が浮かんできた。








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