たりたの日記
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2004年06月18日(金) 映画「パッション」を観て

今年の4月、レント(受難節)の時期に、「マタイのパッション」と「ルオーのパッション」のことを書いた。その時、もうじき来る映画「パッション」を見ることができるだろうかと書いたが、遅ればせながら、昨日、その映画を見てきた。

パッションというのはキリストの受難のことで、この映画はキリストの最後の12時間を忠実に映像化した作品だ。脚本はすべてラテン語とアラム語でかかれており、英語と日本語の字幕が出る。当時の衣装や生活習慣など徹底的に検証され当時を再現している。メル・ギブソンが12年もかけて構想し、約30億円の私財を投じて完成させたということだ。

賛否両論の映画評、友人たちもあまり良い評価をしていなかったし、何しろ、十字架にかけられるキリストの残酷なシーンに耐えられるかどうか自信がなかった。けれど、評判がどうであれ、これは見なくてはいけないという気持ちがあった。一人の人間が、身体を張って、自分の内にあるイエスを映像で表現しようとしたのならば、それがどういう形をしているものか見なければと。

言葉が英語でなくて、当時のままの言葉で語られているのがよかった。その言葉だけに注目して、もう一度見る価値はあると思った。
映像は美しく、確かにリアルだった。鞭打たれるイエス、十字架を担ぐイエス、十字架に釘打たれるイエス。どれも、その場で実際に見ているように細部にわたって映像化されていた。
イエスの最後の12時間をできるだけリアルな映像にするというこの映画の主旨は充分達成されていたと思う。

しかし、見終わって思うことは、リアルな映像として描くことが、必ずしも、その事柄の本質を伝えるのではないということだった。
というのも、わたしが聖書の中の文字を辿り、わずか数ページのその記述を通して心に描いてきたその受難の映像に新たに加えられるものは何もなかったからだ。

視覚的にイエスを見ることのインパクトということろからすれば、ルオーが描いた十字架の上のキリストを見た時ほどの衝撃はスクリーンの映像に感じることはなかった。これほどリアルであるにもかかわらずである。
一方、ルオーのキリストは、黒一色の版画、血も描いていなければ、手や足に食い込む釘もそこになく、またその目は閉じられているのに、そのキリストは、わたしに力強く迫って来る。初めてルオーを見た20歳の時、わたしは絵の前でぼろぼろと泣いた。どこからやってくる涙かも分からず、悲しいというのでもないのに、嗚咽が止まらなかった。
映画を見ながら、イエスの痛みを思って涙は溢れてきたが、それは質の違うもので、わたしの何かを変える涙ではなかった。


映画の中で、マリアと悪魔の映像は新鮮で心に刻まれた気がする。実際、意識の中に、それぞれの顔が立ち上ってくる。
わたしはカトリックのバックグラウンドがないので、マリア信仰には馴染みがない。これまでイエスの傍らにいる母マリアを意識しまた心に描くことはなかった。
この映画の中では、むしろ母マリアの存在、その心の苦しみや葛藤がみごとに描き出されていたと思う。メル・ギブソンがカトリックの信者であることが、こういうところに反映されているのだろうか。

また印象的だったのは、これほどリアルに描きながら、目には見えない悪魔をスクリーンの中に登場させているところだった。悪魔とはいったい何なのか、この映画は悪魔の本質をよく映像化していると思った。


イエスが ゴルゴダの丘を、重い十字架を背負って歩いているシーンで

「だれでもわたしについて来たいと思うものは、
自分を捨て、日々自分の十字架を負うてわたしに従ってきなさい。」

という聖書の言葉が浮かんできた。
わたしが日々負うべき十字架とは何だろうと。


たりたくみ |MAILHomePage

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