たりたの日記
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2004年03月01日(月) |
何を書くか、どう書くか |
本にする原稿の一回目のリライトを2月中にということだったので、一応のリライトをして提出した。方向も構成も、これで良いようだし、編集からは、よい本になりますと言ってもらい心強かった。よしこれでゆくぞ〜と細部のリライトに取り掛かったところ、また揺れが起こる。
今まとめようとしているエッセイはひとつは父のこと、もうひとつは子育てを通じて私自身が育ちなおしをしたというテーマ。前者はまあ、問題はないとして、後者の場合はどうしても家族や知人や組織や機関、様々な情報が入ってくる。これが情報を伝えるものであれば問題ないが、あくまでもわたしの目から見たり感じたりしたことなのだから、そこに客観性はあまりない。
さらには、息子達の赤ん坊のことから、成長期の様々なエピソードが登場する。それはわたし自身の感じたこと、そこから学んだことを書きたかったにしても、そこに「わたしの主観で作り上げた」本人達の姿が晒されることになる。
昨日、10日間の住み込みアルバイトから戻ってきた息子にリサーチするつもりで、逆カルチャーショックのことを聞こうと話しを始めたところ、自分のことが書かれるということについてどう思っているかを彼が話し始めた。これまで子ども達も夫も、わたしが書くことについては寛容だったので、あまり気にすることもなく本人達を登場させてきた。しかしそれがネット上ではなく本として世に出る場合、話しは違うという。たとえ、悪いことは書かれていないにしても、そこに書かれているのはあくまでおかあさんが見た僕で、僕が認識している僕じゃない。ところが読む人はそこから僕を知る、それが僕だと思う、それはいやだと。
全くその通りだ。返す言葉がない。わたしはわたしが捕らえた息子なり、友人、知人の姿をそこに留めたいと思うわけだが、それは事実を記録しようとしたものではなく、わたしというフィルターを通し、読み物としておもしろいものにしようとするわけだから、もうフィクションなのだ、創作のエネルギーが働いている。小説といったほうがむしろ正しい。しかしそれは小説として書いているわけではないから「事実」として読まれることになる。その矛盾。書かれる方はたまったもんじゃない。その通りだ。
はあ〜、考えこんでしまう。 人のことを書くにしても、どう書くかなんだろう。自分を書くという軸から離れないで深いところから言葉を紡いでいくということが問われているのだろう。ふう〜、また振り出しという感じ。 しばらく考えてみよう。
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