たりたの日記
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2004年02月02日(月) 「連れ舞ひ」を観る

昨日、「連れ舞ひ」という現代舞踊のを観ました。
場所はティアラこうとう小ホール。マオアキラさんからご案内をいただき、
マオさんやミュージカルの仲間と再会できるのもうれしく、話に聞いていた
マオさんの友人の一色眞由美さんの舞踊や、前回見て衝撃を受けたケイタケイ さんの舞踊も見たいのでこの日を楽しみにしていたのです。

今回のプログラムは舞踏作家協会の主催するもので、2人づつ7組の舞踏家たちによるとても個性的な7つの舞踏でした。連れ舞いのパートナーは必ずしも現代舞踏家ではなく、陶芸家、画家、一人芝居の役者、日本舞踊、地唄舞の家元といった奇想天外なコラボレーションでした。

異なる芸術、異なる世界が舞台の上で、その違いをくっきりと見せながらも、響きあい絡み合い、不思議なハーモニーを創り出していました。

わたしはどの舞踏も、体を前に乗り出して、ぐっと息を詰めて見入っていました。きっとすごい怖い顔をして見ていたんじゃないかしら。
いい意味でどれも観る者に緊張を強いる踊りだったのです。そういう意味ではこの前見た、フリースタイルや、ヒップホップ、ファンクといった踊りとは、同じダンスとはいっても全く異なる世界です。あの時には、体中が開放されエネルギーが駆け巡りましたが、昨日の舞踏は心のずいぶん深いところに、しかもふだん気がつかないくらいの深層に意識がきりきりと集中していくといった印象でした。けれども観終わった後にはやはりエネルギーがチャージされているのが分かりました。

人間が生きるということに伴う根源的な苦闘、悲しみ、所在無さ、情熱、憎しみ、そしてそれらを突き抜けたところにある光や希望や愛といったものが、そこに起こる心理的な葛藤や枯渇や希求が、洗練された動きで表現されていると思いました。

ひとつひとつの舞踏を見ながらこの朝に礼拝で聞いた聖書の言葉が踊り手の動きの上に重なるように繰り返し響いていました。

貧しい人々は幸いである。
飢えている人々は幸いである。
泣いている人々は幸いである
・・・・・・・・・・・・・

富んだところ、満腹したところからは決して生まれ得ない表現だと思ったからです。
舞踏家たちが目指すものの深さと高さをそこに見たからです。
そしてそれは、イエスが指し示そうとしている深さや高さに通じると思いました。

舞台の後でマオさんたちと話した際、一色さん、そしてケイタケイさんは舞踏家、大野一雄氏の流れを汲む舞踏家だという話を伺い感慨深く思いました。大野一雄氏がキリスト者だということを以前サイトに伺った時に知ったからです。まだ大野氏の舞台は見たことがないのですが、ますます見たいと思いました。

ほんとうに良い舞台を見ることができました。
お誘いくださったマオさん、舞台を見せてくださったアーティストのみなさんに心からありがとうございます。





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