たりたの日記
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2003年10月15日(水) 心の深い底で触れ合うものがあるとするならば

一日を終えて、この日記を開くという行為は、一日のうちで、最もわたしがしたいことなのかもしれない。

この一日という時間の中で、感じたこと、考えたこと、その流れては消えゆく想いにしばらくの間心を向けて、その流れを止めようとする。
そして、それをひとつの消えないものに留めておこうとする。
時間とともに消えてゆく夕焼けの空をなんとかカメラに収めようとする、そんな心の動きにも似ているだろうか。

その日に何をしたとか、どんなことがあったとか、そういうことはわたしにとってはどうでもよかったりする。まして人に伝える意味もないような気がする。しかしその出来事の中で、また、出来事と出来事の狭間で「動いた心」は記録しておきたいと思うのだ。その時の色や音や香りとともに。

しかし、何のために。
ひとつは自分自身と深く出会うために。
今だけではなく、これから先も。
もうひとつは、その深みのところで自分以外の魂と出会うために。
それはわたし自身が、深いところから出てきた他者の言葉に触れる時に、そこに強い心の振れや、安らぎや、共感を覚えるから。

著名な作家が書いたものばかりではけっしてない。
同じように無名で生きている人の言葉にそれは起こる。
むしろ売りものではない文の中にこそ、わたしの出会いたいものは潜んでいる。


WEB日記行動にまつわる研究をしておられるという聖心女子大学社会心理学研究室のSさんからアンケート調査の依頼がメールで届いた。おそらく、ここや他のWEB日記で書いている多くの人にこのアンケートの依頼があったことだろう。そのアンケートに答えながら、その選択肢のどこにも当てはまらないものがいくつかあり、わたしにとって日記は何なのだろうと考えた。

人を、読者を、意識していないかといえば、嘘になる。
では読者を楽しませたり、喜ばせたりすることを、あるいは言葉の遊びを共に楽しむことをひとつの目当てとして書いているかといえば、わたしの場合は違う。ある意味、自分自身の魂に対して真実ならば、他の人がこれをどう読もうがかまわないという意識すらある。
しかし、そこには共感してくれる誰か、
言葉を交わさないまでも、姿すら見えないまでも、確かに底のところで触れ合い、細かな振動が伝わり、何かが行き交う他者が存在するという前提がある。

では、その「誰か」がもし存在しないとしたら。

誰もいなくても
神は在る。

むしろ、そこのところへ立ち返って書いていたいと思っていたのだった!
これは、祈り。
そう思いながらもしばしば、そのことを忘れてしまうが。





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