たりたの日記
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2003年10月07日(火) 三枝和子「恋愛小説の陥穽」を読む

 
この夏から読み始めていた三枝和子氏の「恋愛小説の陥穽」をようやく読み終えた。
おもしろかった。図書館で借りた本なので、何とか手に入れたいと思っているがともかく、返却する前にここにメモを取っておこう。

ところで、わたしは昔から、男性作家の書く恋愛小説を心からの満足を持って読み終えたことがないような気がする。そればかりか、反発を感じることが多かった。それもずいぶん昔から。わたしが記憶しているのでは15歳の記憶にまで遡る。

中学校2年生の2学期、読書感想文で、モーパッサンの「女の一生」の主人公とシャーロット.ブロンテの「ジェーン.エア」のジェーンを比較し、前者は男が描く女性像であり、後者は女性にしか書けない女性像だと書いたことを覚えている。まだ男女の機微も知らない15歳ではあったが、そこに男がどのように女を見たいのか、そしてまた女は女をどう生きたいと思っているのか、その両者に横たわる深い溝のようなものを直感したのである。わたしの書いた感想文を読んで、当時付き合っていた2級上の先輩が「正確すぎるほど正確な表現だ」という感想をよこしたが、それを複雑な気持ちで読んだ。賞賛ではない嘆息をその文面に読み取ったからだ。

男性の作家が書いた小説の中の恋愛や女性の描写を読む時、何かしっくりこないというものから、露骨に頭に来るものまでその程度は様々なのだが、その違和感がどこから来るかと聞かれてもそれは感覚的なもので、説明できるような気はしなかった。

そうであったから三枝和子の「恋愛小説の陥穽」を読みながら、それまで言葉にできなかったことが明確な言葉で表されていることに、長年の胸の痞えがとれたような爽快感を覚えたのだった。

三枝氏は序文の中で、このような問題提起をしている。

男性にとっての恋愛の発想が「それが俺には必要だ」というところから来て、自分の所有物にしたいという願望であるが、女性には所有という事態を逃れたいという願望が一方にある。女性の目から見れば、「それが俺には必要だ」という構造において、男性作家の書く「恋愛小説」は本質的には女性を観ていない。そして観ていないのに、観ることができないにもかかわらず、作家自身があたかも女性を観ることができるかの如く書いている作品に出会うとどうしても違和の感を持つ。これは小説の技術云々ではなく、作者の女性観、男性観、ひいては世界観にもかかわってくる問題だと。

そしてまた、わたしがこれまで少なからず抱いていた違和感もそういうところに元を発していると今は言うことができる。

序文の後、9人の男性作家の作品を考察し、結では「ノルウェイの森」と「たけくらべ」で終わっている。この9人の作家の中にはまだ読んだことのないものも多かったので、ここで上げられている作品について自分で読んでみたいと思った。

しかしどうだろう、陥穽についてはもう充分に納得したから、陥穽に陥っていない、新しい視点、きちんと女性を観ている男性作家の作品を探すか、あるいは、今まで通り女性作家のものを読んだ方がいいかもしれない。読む時間は限られているのだもの。

せめて、取上げられた作家とおもな作品を記しておくことにしよう。




     恋愛小説の陥穽      三枝和子著 青土社
  
   
*序「恋愛の発見」と「生血」
              秋山駿 「恋愛の発見―現代文学の原像」
              田村俊子 「生血」

*漱石の過誤       「三四郎」「それから」「門」他

*谷崎の矛盾       「少将滋幹の母」「蓼食う虫」他 
 
*太宰の逃避       「ヴィヨンの妻」「女の決闘」他

*川端の傲慢       「眠れる美女」「伊豆の踊り子」他

*荷風の逆説       「断腸亭日乗」「つゆのあとさき」他

*秋声の破綻       「黴」「あらくれ」他

*三島由紀夫の二重構造  「鏡子の家」「午後の曳航」他

*武田泰淳の虚無     「快楽」「富士」他

*石川淳.原型への渇望  「普賢」「処女懐胎」他

*結「ノルウェイの森」と「たけくらべ」     
              村上春樹 、樋口一葉






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