たりたの日記
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2003年09月20日(土) |
自分のセクシュアリティーを表現するということ |
「ミラー.ウィズイン(内なる鏡)」という本をかなりの共感を持って読み終えた。深い満足感がある。
著者アン.ディクソンはイギリス在住で女性のためのアサーティブトレーニングや性心理学カウンセリングをしている。アサーティブというのは、自己信頼にもとづき、率直で、相手を傷つけることなく自己主張する態度とされる。
ディクソンは前書きの中でこのような質問を読者に投げかけている。
「あなたは自分のセクシュアリティーをどうやって表現し、受け止めていますか」と。
また彼女は 「私たちはセクシュアリティーをあまりに固定的にとらえ、それが自己表現の重要な側面であることを忘れている」と指摘する。
私自身、若い頃、自分自身のセクシュアリティーを良いものとして受け止めることができなかった。できるだけそこから自分を引き離そうとし、自分とは無関係なこととして知らん顔を決め込んでいた。それというのも私自身が女性を「聖と俗」、「悪と貞節」、「イブとマリア」といった具合に、女性を2つに分断する誤った考えの影響下にあったからだ。
自分の内に認めるセクシュアリティーを俗なるもの、悪として脅え、それを隠し、何としても聖に属するものになりたいと、内なるセクシュアリティーを無意識の内に締め出してきたのだった。
パートナーとのかかわりの中で、わたしの脅えていたものが根拠のないものだと分かり、次第に解放されていったものの、一歩外に出ると、伝統的な女性への偏見や無理解に突き当たらざるをえない。 著者からの問いかけに対して、私は自分のセクシュアリティーを受け入れてはいても、それを表現するという段階へはまだ行き着いていないと感じた。それと同時に、自分のセクシュアリティーを積極的に表現することを試みようという気持ちが湧いてきた。今までさんざんに言い古されてきたり、コマーシャリズムの餌食になってきた男性の目を通した表現ではなく、自分の内から起こってくる新しい表現として。
この本は、ワークショップのような形式で、 <自分のからだを好きになる> <自分の性器とで出会う> <自分のための時間を持つ> といった具合に、自分のセクシュアリティーを受け入れたり、発見するための具体的な方法が提案されていて、とても実践的だ。
さらに <男性のセクシュアリティー> <女が女を愛すること> <友情について> <性のライフサイクル> といった章では、セクシュアリティーを様々な方向からとらえ直す試みがなされていて 興味深かった。
<いのちの源泉をもとめて>という章には、すっかり書き抜いておきたいほど、共感する記述があった。わたしが奇しくも昨日の日記の中でクラゲに感じた官能性のことを書いたが、彼女の中にこのような文を見つけてうれしかった。
<もしセクシュアリティーがこれからの人生の重要な一部であると確信できれば、すべてはうまくいく。日常生活の中の官能的なものを、セックスと混同することなく認めることができる。りんごの果実や木の幹、子どものからだや花、楽器の音のもつ官能性を、曲解されることなく口にするのは難しい。しかしこれこそ、私たちがセックスの強迫観念につき動かされてきた中で失った、セクシュアリティーそのものなのでる。 私たちはセックスのあとで幸福感を味わうことができる。しかしそれは一つの方法にすぎない。私たちのセクシュアリティーは命の源であり、私たちそれぞれの水源であり、からだの中の精神的、感情的な源泉である。それを性的行為のみに結びつける必要はない。 セクシュアリティーの本質を取りもどせば、性的なエネルギーは私たちのからだや命の限り広がっていく。後略>
明日から2泊3日間、国立オリンピック記念青少年総合センターを会場で開かれる「教会「女性」会議」に参加する。今回のテーマは「「女性」をとらえ直す」 その中のプログラムの「セクシュアリティー.ワークショップ」、「シネマに見る「女性」たち」、「教会のジェンダー秩序と異性愛規範を問う」は、とりわけ興味深い。これまで一人で考えてきたことを、共通の価値観を持つ女性達と共に学びあい、考え合うというのはなんともエキサイティングだ。きっとそこから広がっていく世界があることだろう。
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