たりたの日記
DiaryINDEXpastwill


2003年07月10日(木) まあるく平たいパンが裂かれる日曜日の朝に

7月6日 日曜日

M牧師の手の中には白い布に包まれて、いかにも焼きたての様子をした、まあるく平たいパンがあった。
それまで、おもいおもいに、牧師の説教を聞いていた会衆は座席を立つと前に進み出て、牧師の回りを取り囲んだ。牧師が手の中のパンを裂き始める。小さく、丁寧に。空気がその裂かれるパンを中心にして引き締まる。ひとつになっているのだ、そこにいるひとりひとりの意識が。
ここへ、今日初めて足を踏み入れ、初めて出会う方々の中に加わったわたしたちさえ例外なくひとつに、communion。

そこには明るく暖かい光りが満ちていて、窓からはラベンダー色の風も
入ってきていたのだろう。心の内にひたひたと湧き上がってくる喜びに満たされて、その小さなパンのかけらを口に入れる。やわらかく、甘い味がした。

イエスは十字架に架かるその夜、弟子達との最後の晩餐の席で、パンを
裂き、これは私の肉だと言って弟子達に分け与えた。2000年の時を経て、なお、わたしたち、キリスト者は日曜日ごとにこの裂かれたパンをいただく。

さて、この日のM牧師の説教の題は「われら主に養われる群」。ルカによる福音書9章10〜17。イエスの話しを聴きに集まってきた男だけで5千人はいたとする群衆に、イエスは五つのパンと2匹の魚を分け与えたという聖書の箇所からのお話だった。
「わずか、5つのパンと2匹の魚であっても、イエスがそれを祝福して裂き、分ける時、それは無限の豊かさを持つ。信仰、希望、愛という主の糧は分けると豊かになるのだ」と語られた。説教の最後でM牧師はあたかも
その手の中にパンがあるように、聞く者たちの前に差し出し
「このパンをあなたは、どうしますか」という問いかけをした。
その時、目に見えないパンが、わたしの手へと渡されたと思った。
この主の糧を、そのまましまっておくことなく、また、自分ひとりで食べてしまうことなく、分けるのでなければ、と新しい決心が起こる。

さて、この日の聖餐式のパンだが、礼拝の後のお茶の時間に伺うと、これはM牧師のお連れ合いのS牧師が焼いた自家製のパンだった。神が約束された「乳と蜜の流れる地」というところから、蜂蜜と牛乳を使い、過ぎ越しの食事は「種なしのパン」だったので、イーストは使わず、「あなたがたは地の塩です。」と言ったイエスの言葉を思い、少しの塩で味付けしたというオリジナルな聖晩餐のパンだったのだ。


ある時「たりたガーデン」にふらりとやってきたPは、「フェミニスト神学」の検索からここに辿り着いたと言う。ネット上のガーデンで親しくおしゃべりするうちに、ふとPの通う教会を訪ねてみようと思ったのだった。Pにもそこの教会の人たちにも、この日、初めてお会いしたのだった。


偶然に見える出会いが実は神さまの配慮と計画の中にあると、私はいつだって信じているが、この日の出会いにもそのことを感じた。

この日、いただいた見えないパンも、また口で味わったパンも、今日のこの出会いをさらに豊かに、意味あるものにしてくれた。感謝。





↑いつも応援ありがとうございます!

人気サイトランキング

↑こちらもヨロシク






たりたくみ |MAILHomePage
My追加