たりたの日記
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2003年03月30日(日) |
すとんと我が身に落とした言葉にはきっと力がある |
今日はミュージカル最後の練習。 演出の知人の俳優の方が稽古場にいらして、最後の通しを見てくれた。風貌からして「役者」という感じがするその人の視線を意識してか、あるいは最後の練習だからか、みんな今までにないような生き生きした演技をしていると感じた。しかしさすがプロの視点。コメントは「はっ」としたり、また「ふうん」と考えさせられたりした。
「虚像の中にある真実を大切にしなくてはならない。そこに嘘があってはならない」というコメントはどきりとするものがある。舞台は虚構の世界ではあっても、役者がその人間になりきる時、そのキャラクターと自分が一致する時、その虚構は真実なものになるのだろう。しかし、キャラクターになりきれない時にはそれが嘘になってしまう。その嘘は観客から明らかに見破られてしまうのだ。語りとは違う。語りは語るものと聞くものがいっしょにその世界の中に入っていくのであるが、演劇はその話の世界の中にまるごと自分が入りこまなくてはならない。その人間に成り代わらなければならないのだろう。私の場合、どこか演じている自分を見ている醒めた自分が一方にあるのだ。きっちりとスイッチが入っていない感じがする。
「台詞が単に台詞として演じるのではなく、すとんと自分の中に落とし、その落ちたものが自然と口を突いて出てくるようにする。」ということも納得のいくコメントだ。わたしはまだすとんと落としていない。つまり私自身と台詞の間に距離があるのだ。だから、どこかよそよそしく、芝居がかっている。人の心を動かすほどのパワーはそこには生まれない。
文章だってそうだ。どんなに整った文でも、そこにはその人の匂いもエナジーも感じ取れないものがあれば、子どもが書く詩や文にはっとするようなエネルギーを感じることもある。すとんとその人の胸元に落ちた言葉というのはどんな言葉でもそこにある真実に打たれ、そこにあるエネルギーに触発されるものである。
さて、でも今は文ではなく、台詞のこと。自分の台詞をすとんと我が身に落とすという作業をこの一週間で何とかやり遂げたい。
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