たりたの日記
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2003年02月23日(日) いったいわたしの皮袋は新しいだろうか

これまでもこんなことがあった。
自分とかかわりの深い人が死ぬことで、それまで見えていたものが異なる見え方をするということが。そうして異なる見え方は、私に今ある現状のいごこちの悪さをいっそう強く感じさせ、それまでしがみついたものと決別したり、自分の身辺の人やものとの関係を整理したりという作業がそれに続いた。
何なのだろう。
きっと、なくてはならないものが何であるかがはっきりした輪郭をもって見えてくるからなのだろう。本質的なこととそうではないこととの間に引かれた線が浮かび上がってくるからだろう。

今日の聖書日課の福音書の皮袋のたとえはあまりに有名だが、ふと私自身のぶどう酒と皮袋の関係を振り返ってみる気になった。新しいぶどう酒はイエスの言葉でそれを受け止めるわたし自身の心や意識といったものがぶどう酒を入れる皮袋とするならそれはいったいどのくらい新しいのかあるいは古いのかと。

イエスの出来事というのはそもそも人を内面から揺り動かさないではおかない。それはあたかも発酵中のぶどう酒のようにパワフルなものなのだ。私はそのエネルギーを無視して、古い皮袋のままの自分にそれを注ぎいれようとしているのではないだろうか。いえ、注ぎ入れようとさえしていないのではないだろうか。本質的なところで生きるのではなく、何かに逃げ込むことで日々暮らしてはいないだろうか。
今夜はしきりとそんなことが思われる。



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マルコ2章18〜22
◆断食についての問答
2:18 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」 2:19 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。 2:20 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
2:21 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。 2:22 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」






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