たりたの日記
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私は母の死を、義母の死をどのように迎えるのだろうか。 そしてまた、私はどのように死に、子ども達はそれをどのように迎えるのだろうか。小津安二郎監督の映画「東京物語」を現代風にアレンジしたというテレビドラマを見ながら、そんなことを考えていた。
死ほど動かし難くすべての人に等しく与えられる未来はない。 何一つ持たないでこの世に来た身体は再び、何一つ持たないで元いた場所へと戻っていく。ここでの終わり、そして新たな始まりの時。 死にゆく人は何一つ携えることなく帰ってゆくとしても、その人が自分の生きてきた空間に何かを残してゆくことは確かだ。その人がどれほど愛したか、その目には見えないそのものこそが唯一、人がこの世に生きた証となるのだろう。その人から向けられた愛はその人の死によって失われることなく、より鮮明に残された者の心に刻印される。
ドラマの最後で、母親の死を迎えた子どもたちが、まるで眠りから覚めたように母親の愛に目覚める場面がある。しばしば、愛されているものはその愛に気が付かない。気が付かないうちに深く愛され、祈られ、支えられている。愛されているということの自覚がないということは、ある意味自分自身に目が開かれていないのだ。深く交流する心の繋がりをどこかで絶っているのだ。そして死はそのちぎれたコードを再生し、深い繋がりを取り戻す。 その繋がりは愛さない生き方を愛する生き方へと変えてもいく。ドラマは何も語っていなかったが、それぞれの子どもたちの歩みがそこから変化していくことは十分に予想できた。
そういう死を私は準備できるだろうか。
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