たりたの日記
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2002年05月30日(木) |
木々の中で過ごした午後 |
今日は午前中ヨガに行った後、帰り道にある町の公園まで足を伸ばす。もうピークは過ぎたものの、バラ園には色とりどりのバラが咲き乱れ、甘い香りがただよっていた。
私はバラに目は走らせながらもその前では立ち止まらず、公園の奥まったところにある沼地へ歩いていった。ここはわずかに水のある沼地でそこに細い木々がたくさん生えている。植林した整った林ではない全くの自然な木立だ。前からあまり人のこないこの美しい木立のある場所を瞑想の場と決めていたが、最近、町が沼の中に立派な木道や屋根付きのベンチを付けたので公園に続く散歩道になっている。
春、夏、秋、冬、それぞれの季節の木々の様子を見に1人で良く来ていたがこの1年ばかりすっかり足が遠のいていた。 人には瞑想がいいとか、垂直になる場所とかアドバイスじみたことを言うのに今朝は自分自身が、垂直ではなく、何か気が整っていないことを自覚していた。そういう時は理由もなく不安な気持ちになり、何かに囚われていて自分の中に安んじることができない。昔はこういう時には焦燥感にかられて人に会ったり、電話をしたりしたものだったが今はその原因が何なのか、どうすれば自分のコア(核)に繋がれるのか方法は分っている。
木々にはとても良い浄化のエネルギーがあるのでこの中にいるだけでまず気持ちが解けてくる。解けたところで不安や焦燥感やうつろな感じをまず味わってみる。その中に留まっていたいのかそれともその中から出て行きたいのか自分に問う。というのは私は時々、当面抱えている問題に向かいたくないために自らうつろな状態を作っていることがある。逃避である。現実のところから身を引き離し、夢うつつの中に留まろうとするのである。その場所は決して居心地が良いわけではないがそこから出てくるパワーがない。 しかし今日は自分のコアに戻ろうという積極的な気持ちになれた。地面にしっかり足をつけて垂直の線に自分を合わせようという気になった。すっかり弱くなっていた自分の中心にある光(コアエッセンス)に息を吹きいれ輝きを取り戻す。
自分の気がきちんと流れるようになると木々や花は先ほどまでと違った見え方をしてくるから不思議だ。何か眼鏡の度が急に合ったように葉脈の一本一本が花弁の筋までがクリアーに見えてくる。見えるというよりはあちらから迫ってくるという感覚になる。いかにも地上の命あるものと一体になったという感じである。実際そうなんだろうと思う。
今度は祈ろう、エネルギーを送ろうと思う人をひとりひとり思い浮かべ、その垂直な線をピンとのばし、中心にある光に息を吹き入れるようににエネルギーを送りこもうとする。祈りとともに。
6,7年前に興味本位で学んだセルフヒーリングは時間を経て、すっかり自分の持ち物になっている。私にはとりわけ強いサイキックがあるわけではないのでそれを本業にしたり広めたりする気は毛頭ないが、学んだことが日常の中で使え役に立つのはうれしい。ヒーリングのセッションに通い始めたころは夫が猛烈に反対したが最近では「今日エネルギー送ってて」とリクエストをする。胡散臭いと言っていた子どもたちもサッカーの試合の前に電話をかけてきて「今からエネルギー送って」なんて言ってくる。ほんとうに私のヒーリングパワーを信じているんだろうか。それともおまじないのようなものかしら。でも頼りにされて悪い気はしない。 別にヒーリングではなくても想いというのは相手に届くというのは誰でもが信じていることだろう。
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