たりたの日記
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2002年02月03日(日) |
あなたがたは地の塩である |
日曜日の日記は聖書のことを、それもその日の聖書日課にそって私が感じたことあるいは礼拝の説教で感じたことを書こうとしている。時には教会学校で子どもたちに話したことだったり、あるいは話すための準備のためにここに書きながら考えたりもする。
昨日の日記で宮沢賢治の言葉を書いたが「すきとおったほんとうの食べ物」という言葉が私はとても好きなのだが、私にとって聖書は賢治のいう「すきとおったほんとうの食べ物」だと思っている。賢治は熱心な仏教徒だと聞いているので、仏教のことを何も知らない私は賢治の言葉を通して賢治の宗教観を知るのだが、わたしは賢治の宗教観にとても親しいものを感じている。けっして押し付けがましくない。少しも責められている気がしない。それなのになぜか内省を促される。聖人ばかりが登場してきてうんざりすることもない。人間のこすさや内に潜む高慢さもそこにはあって、それでもそれは善と悪というふうにはしきられていない。賢治の宗教観に親しみを覚えるのは私自身キリスト教徒ではあっても日本に生まれ育ち、知らないうちに身についてた仏教の影響があるからだろうか。それともキリスト教にも仏教にも共通している何かが私の見つめているところだからだろうか。きっとその両方なのだろう。いつだったかアメリカ人の友人があなたといると仏教の世界を感じると言った。彼女は自分の文化の中にない仏教に何かを求めている風だった。
今日の聖書の箇所はマタイ福音書5章13〜16「地の塩、世の光」というタイトルがついているところだ。「あなたがたは地の塩である。」というイエスの一言は重い。さらに「塩に塩気がなくなれば何の役にもたたず、外に投げ捨てられ人々に踏みつけられるだけだ」と語調はかなり厳しい。塩、それ自体は食べられたもんではない。しかし塩の入っていない食べ物も食べられたもんではない。そしてまた塩は物が腐敗するのを防ぐ。毎年味噌を作っていて思うことだが、いとも簡単に腐るはずの豆が大量の塩のお陰で一年でも二年でも保存できる。この「地の塩」はイエスが用いた比喩の中でも良く知られる比喩で本のタイトルや機関紙の名称にもされているが、しかしこれは比喩であるだけにどのようにも解釈でき、そこから具体的な指示を引き出すこともできない。その人その人が「塩の意味」を考え、自分をどう塩にしていくのかはいわば本人にまかされているのだ。わずか鍋いっぱいの煮物をする時にもきちんと作りたい時には軽量スプーンで塩や醤油の量を測ろうとする。多すぎても少なすぎてもおいしくない。この難しい塩加減を自分自身の有り様と結びつけていくというのだからこれはそう簡単なことではないはずだ。いくら正しいことを主張しても、腐りを止めるべく塩を振りまいてもそういうことには誰しも拒否反応を示す。塩辛すぎる食べ物を体が拒否してしまうように。しかし、何の主張もせず、長いものに巻かれてなるようになれと流れに身を任せていれば、イエスから「あなたは塩ではないのか」とおしかりを受ける。確かにそういう有り様の中には塩が塩の役目を果たさないのならまだしも、自分が腐り始めるという恐ろしさが潜んでいる。
去年1年はいろんな意味で塩味が効き過ぎていたと自覚している。その反動で何だか塩抜きでやってしまいそうな自分も感じている。塩がそれと分らずに食材の本来の味を引き出し、そして一方で腐敗を止める働きも行うという、そんな塩加減を自分の中に持つことができるだろうか。そういえば、賢治の塩加減は理想的に思える。そしてそれは誰にも真似のできないレシピが存在している。さて私は私の塩加減を探していくとしよう。
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マタイ5章13〜16 ◆地の塩、世の光 5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
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